016.バタフライおっぱいエフェクト

 おっぱい、それは柔らかくて素敵なもの。おっぱい、それは美しくて素敵なもの。
 全ての人間が、生まれて初めて与えられる飲み物、それを作り出す神の器、おっぱい。
 だが……だがなぜ……! おっぱいは成長を重ねるほど遠ざかっていくのだ! おっぱい触りたい! おっぱい揉み揉みしたい! ああああああ! おっぱいisForever!
 乳離れとは言い得て妙だ。乳幼児が離乳食を食べ始めることを乳離れと言うのかと思っていたが、男たちが成長していくごとに、おっぱいと触れ合える時が減っていくことも指しているとは……。
 と言うと、読者諸君は「おっぱいと触れ合えないとか童貞乙!」と俺をなじるだろうが、そんなことは知ったことではない。いやむしろ知りたい! なぜ俺だけが、この俺だけが未だにおっぱいを触れずにいるのか! 誰か教えてくれ!
「この前ヤった女が巨乳でさー、マジやべえんだよー」と言うチャラ男! 貴様はおっぱいの有難みを分かっちゃいない! 死ね!
 と思っていたら、ある日突然俺におっぱいが舞い降りる。
 いや、決して巨乳の美少女の彼女ができたとかそんなんじゃないから安心してくれ。
 いや、やっぱり安心しないほうがいいかもしれない。巨乳で美少女で黒髪ロングの眼鏡娘の彼女が俺にできたほうが、まだ安心できたかもしれない。
 おっぱいだけが、俺の元にやってきたのだ。しかもかなりの巨乳。EかF、それぐらいある。
「なんだこいつは……」と、朝起きた俺の枕元に置かれていた白い肌の巨乳を見て、俺は思わず呟く。
 なんだも何も、それは間違いなくおっぱいだ。触らなくても分かる。プニプニ柔らかいおっぱいだ。
「どうしておっぱいだけがここに……」とまた俺が呟くと、おっぱいはぷるるんぷるん揺れる。
「俺の言葉が、分かるのか……?」
 ぷるん。
 これは凄い!
 それから俺は突然やってきたおっぱいとコミュニケーションをとるため、合図を決める。
「いいか、おっぱい。YESだったら一回ぷるん、NOだったら二回ぷるんだ」
 ぷるん。YESだ。
「お前は、おっぱいと触れ合いた過ぎて生み出してしまった俺の、幻覚なのか?」
ぷるん、ぷるん。NO。
「じゃあお前は一体何なんだ?」
 沈黙。そうか、YESかNOかで答えられる質問じゃなければ、コミュニケーションできない。
「おっぱい、なのか?」
 ぷるん。YES。そりゃそうだろう。
 なんにせよ、俺が夢にまで見たおっぱいだ。
「なあおっぱい……その、触っても、いいか?」
 ぷっるん。YES! 俺はがばっと飛びついて、おっぱいを揉みしだく!
「や、ややや、やーらけぇえええええええ!」マシュマロ? プリン? 何これ!? おっぱいだよ! おっぱいでしかないよ! おっぱいこそ人類を平和へ導くものだよ!
 そうして、俺とおっぱいの不思議な共同生活が始まった。
 色々と不便なことはあった。おっぱいのご飯をどうするかとか、お風呂はともかく、トイレはどうするのかとか。
 でもおっぱいは見かけによらずしっかりした奴で、自分のことは自分でしようというところがあった。
 引きこもり気味だった俺は、バイトも始めて、初めて貰ったバイト代で、おっぱいにブラジャーをプレゼントしてやった。
 ぷるるんっぷっるるんるん。おっぱいはかなり喜んでいた。
 そうして数か月経った時、俺はおっぱいと気分転換に近所の公園へ散歩することにした。
 散歩、と言えるのかは微妙だった。おっぱいを人に見られないように、リュックサックにおっぱいを詰め込んで、俺がそれを背負って歩く、というものだ。
 それでもおっぱいは楽しそうだった。
 ぷるんぷるん!
「おいおい、嬉しいのは分かるけど、少し大人しくしてくれよ」
 ぷるん!!!
 突然、おっぱいがこれまでにないくらい、激しくそして力強く揺れた。
「お、おい!」
 おっぱいはリュックサックから飛び出して、スーパーボールのように弾んでいく。
「待ておっぱい! どこへ行くんだ!」
 俺は追うが、おっぱいは速い。追いつけない。
「おっぱああああああああああああい!」
 弾んで俺から離れていくおっぱいの姿が、徐々に透けていく。消えていく。
「おっぱい待ってくれ! このままお別れなのか! そんな! あんまりだ! おっぱい好きだ! 大好きだ!」
 だがおっぱいは消えてしまった。俺はその場で崩れ落ち、ぐしゃぐしゃに泣き喚いた。
「ちょっとあんた、何泣いてるのよ。大の大人がみっともないわよ」
 顔を上げると、貧乳の女の子が立っていた。
 
「それじゃあ、おっぱいのみ転送するタイムマシーン起動するよ」
「ええ、お願いあなた」
「しかし、あのとき愛したおっぱいが、まさかお前のおっぱいだったとはな」
「ふふふ、おっぱいって、不思議なものね」
「ああ」
 妻のおっぱいが過去に転送されていく。

015.望世界

 ぼくたちは進化した。

 あらゆる壁を乗り越えられる力を、あらゆる穴をよじ登れる力を、あらゆる海を泳ぐことができる力を、あらゆる空を飛ぶことができる力を、ぼくたちは手に入れた。
 望めば何もかも手に入る力。何かを考えるだけでそれが実現する力。その力はとっても危険だけど、ぼくたちはそれを優しさで制御しようとしている、そんな世界。
 
 朝がやって来る。どんなに楽しい一日だって、目覚まし時計に起こされるのは辛い。朝なんてやって来なければいいって思えば太陽は昇らないかもしれないけれど、それは思考管理局の人たちが許してくれない。まあまず無理で、この世界の秩序を保つ最低限の事象は思考管理局の人たちが強力な思考で常にそれを維持している。
 仕方ないのでぼくは起きて、思考する。『身だしなみ整え』って。
 するとぼくのボサボサ寝癖はあっという間に整えられて、目やにがついた顔も綺麗になって、歯もツルツルに磨かれている状態になる。
「おはよー」
 寝起きから数秒で朝の支度を終えて、ぼくは一階に降りてお母さんとお父さんに挨拶する。
「やあコウイチ、いつもより寝坊助なんじゃないか?」
 ってテーブルに座ってコーヒー片手にお父さんが笑う。
「コウイチ、早く朝ご飯食べちゃいなさいよ」
 ってトーストにマーガリンを塗っているお母さんが言う。
 ぼくはテーブルに座りながら思考をする。さて、今日の朝ご飯は何がいいかな。お米とパン、朝はあんまり食べられない体質だから、軽めのパンにしよう。ぼくはトーストを思考する。
 じんわりとテーブルの上に、お皿に載った焼きたてのトーストが浮かんでくる。そのイメージをつかむように、僕は手を伸ばす。
「いただきます」
 その気になれば栄養を摂ったっていうことを思考すればいいんだけど、精神衛生上、食事をしたほうがいいって思考管理局の人たちは言っている。
 トーストをサクサク齧りながら学校へ行く準備を始める。準備と言っても鞄の中に教科書やノート、筆記用具が入れられる思考をするだけ。
 トーストを数枚食べて、牛乳を飲んで、ぼくは学校に行くことにする。
「それじゃあお父さん、お母さん、行ってきます」
 学校を思考する。見慣れた家の風景が、ぴんぼけの写真みたいに滲んでいって、代わりに教室の風景が浮かび上がってくる。
「よっ、コウイチ」
 気が付くとそこはもう教室の中だ。友達のネンちゃんがぼくのほうへとやってきて挨拶してくれる。
「おはよ」
 学校、思考すればどんなものだって手に入る世界だけど、やっぱり勉強は大事だってことでぼくたちは通っている。知識がなければ有益な思考もできないからだ。ここでは世界に有益な思考の知識と、この世界を保つ優しさを学ぶ。
 スーツ姿の先生がいつの間にか教卓に立っている。
「やあみなさんおはようございます。思考で測ったところ、今日もみなさん全員出席していますね。それでは授業を始めます」
 授業は歴史と道徳が主で、選択科目で数学や文学、物理化学や生物化学なんかも学べる。ぼくたちが自由で素晴らしい思考をするために組まれたカリキュラムらしい。
 一時間目の歴史と、二時間目の道徳の授業を受けた。次の三時間目は選択科目で、ぼくは文学の授業だ。
 文学はなかなか人気の授業だ。どうしてかって、それはぼくたちの娯楽であるドラマやアニメ、映画、マンガ、小説なんかはストーリーを思考できる人たちにしか作ることができなくて、ぼくも含めてみんな、いずれはそういうのを作ってみたいって考えているからだ。
 でも文学の授業を受けただけでストーリーを作ることは中々難しくて、だからストーリーを思考できる人たちは尊敬される。思考するだけで何でも手に入る世界だけど、唯一、人からの尊敬は手に入らない。
「あーもう、登場人物の気持ちとかさ、読み取れるかよ。ムズイって。やっぱストーリー作るのは俺には無理かなー」
 ってネンちゃんがお昼ご飯を食べながら愚痴る。ネンちゃんはステーキを思考したみたいで、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てている牛肉をナイフで切って口に運んでいる。
「分かんないって。ほら、有名なストーリーテラーだって、文学の授業を受けたことがない人はたくさんいるじゃん」
 ぼくは辛い台湾ラーメンを啜っている。最近のマイブームだ。
 お昼ご飯を食べ終えたら学校は終わり。後は夕ご飯まで自由に遊んでいいことになっている。
 ぼくは図書館に行く思考をして、一瞬で移動する。そして図書館司書の人から色んな本の知識をもらう。それも一瞬だ。図書館司書の人が知識をあげたいと思考すれば、即座にぼくの頭の中に入ってくる。
 家に帰りながら、もらった本の知識を反芻する。ストーリーの流れをつかむためだ。文学の授業ではやってないことだけど、ぼくはストーリーの流れを理解することが、ストーリーを作るうえで大事だと思う。だからぼくはあえて家を思考して一瞬で移動せず、自動で移動する乗り物を思考して、時間をかけて家まで帰ることにしている。
「ただいまー」
 とぼくはお父さんとお母さんに挨拶をして、テーブルに座る。
「おかえり、今日も楽しかったかい?」
 お父さんが笑いかけてくる。
「うん、楽しかったよ。充実してた」
「それは良かったわね」
 お母さんが夕ご飯をテーブルに運んでいる。夕ご飯は、家族一緒に同じものを食べるのがルールだ。今日の夕ご飯は唐揚げとか野菜炒めとか味噌汁とか色々。
 夕ご飯を食べ終えて、歯磨きの思考をして、ぼくはベッドに潜る。明日は何をしようかなって考えながら、やってくる眠気に身を委ねる。
 
 一人の少年が眠りについた。すると世界は完全な闇となる。闇に覆われるのではない、全てが闇に、無になるのだ。少年が身体を横たわらせていたベッドも、家も、地面も、空も、地球も、月も、星も、宇宙も。
 そこには眠る少年だけがあった。穏やかに寝息を立てている少年、彼の本能の思考が彼を生存させるための最低限の空気を生み出している。
 少年が目を覚ませば太陽は昇り、目覚まし時計が鳴るだろう。そしてまた彼の思考により家が出現し、彼の両親もまるでずっと存在していたかのようにそこにいるだろう。少年の日常生活は、ずっと続くであろう。
 だがこの世界がすでに、この一人の少年、進化した少年の力により消滅していることを、彼が知ることはない。
 望めばそれが実現する力、それは希望なのか絶望なのか、それを判断できる人間はこの世界には存在しない。

014.あなたの中に罠があります。

 あなたの中に罠があります。
 たとえば、朝、あなたが朝の陽ざしの眩しさに目を覚まして、ゆっくりとその重たい瞼を開けるとき。
 あなたの中に罠があります。
 たとえば、夜、あなたが気怠く甘い疲れに優しくも重くのしかかられ、意識が、ふっと、暗闇の中に消えるとき。
 何気ない、あなたのその一日の始まりと終わりの中に、罠があります。
 だって、そうでしょう? あなたの一日の始まりと終わり、それが繋がる時間を、あなたは知らないんだから。それは罠だわ。
 でもそのことにあなたは気付くことができないの。なぜならそこにあなたはいないから。
 一日の始まりと終わりが繋がる瞬間、あなたはいないの。世界中何処にも、この世の何処にも、探したっていないわ。
 あなたが瞼を開けるとき、あなたは昨日のあなたなのかしら。
 あなたが眠るとき、あなたは意識と同じように、暗闇の中に消えていかないかしら。
 杞憂? 妄想? いいえ、これは罠なの。あなたが気付いていないだけなの。だって、確実に獲物を仕留める罠は、獲物自身が、罠にかかったことにすら気付かないんですもの。これは間違いなく罠だわ。
 そして、気付いた時にはもう手遅れなのよ。それが罠ってもんだわ。
 そう、つまりあなたもう手遅れなの。どうしようもないの。用無しなの。
 え? 夢? 違うわ。何度も言うけれど、これは罠なの。そして現実なの。
 眠るものたち全てに仕掛けられた罠なのよ。
 あなたは死ぬわ。いいえ、もう死んでいるの。
 でもね、安心していいわ。新しいあなたがあなたの代わりに生きて、そしてあなたと同じようにまた死んでいくわ。みんな、死んでいくわ。
 そう、同じように、これまでと同じように。
 ただ繰り返すだけ。
 
 刺々しい光が刺しては抜かれ、また刺しては抜かれる。耳元で叫んでるんじゃないかっていうくらい煩い小鳥の囀り。そして極めつけは、拷問の一種かと思いたくなる、目覚まし時計のベルの音。
 まったく、頭が割れそうになるっつうの!
 俺は目覚まし時計に拳をぶちこんで、点滅する俺の意識にもまた、拳をぶちこむ。起きろ! 俺!
 布団からもぞもぞ這いずり出て、ふらつく身体をなんとか立たせて、カーテンをジャッと開ける。
 清々しい朝。いつも通りの朝。今日も仕事。昨日も仕事だったし、明日も仕事だ。明後日は休みの予定。ま、あくまで予定だからな。仕事が入るかもしれない。
 まあでも、俺は幸せだった。この、繰り返しの毎日でも。何事も変わらないってのは良いもんだ。安定、良い言葉だね。
 明日があるってのは良いもんだ。そんで、昨日を思うのも良いもんだ。
 さーて、今日も一日頑張るか!

013.死神の誕生日

 消灯後の病室、その暗闇の中にそいつは浮かび上がった。
「どうもこんばんは」
 と、まるで友人の家を訪ねたかのように、そいつは普通に挨拶をしてきた。
 まず消灯後の病室に訪ねてくるという時点でおかしいことだが、それよりもおかしいのが、訪ねてきたそいつの恰好である。
 コテコテの、一昔前の映画やアニメ、マンガなどに出てくるような魔法使いが着ている、黒いローブを羽織っている。
 だがそのことすらも気にならなくなるくらいおかしいことがある。
 黒いローブを羽織っているそいつの顔が、真っ白い骸骨であることだ。
 俺はこれを夢だと思い、瞼を閉じようとする。
「ちょっとちょっと、寝ないでくださいよ」
 と骸骨は寝ている俺の肩を掴み、揺さぶる。感触から、骸骨の手が骨であることが分かる。
「なんだ、夢のくせに俺が眠るのを邪魔するっていうのか。それとも何か? お前は死神か何かか?」
「お、そうですそうです、あたしは死神です」
 と、死神を自称する骸骨はカタカタと骨を鳴らしながら笑った。まるで冗談でも言われたみたいに笑っている。
 俺は身体を起こし、そいつの方へ向き直る。
「死神、ね……」
 正直、驚きなんてなかった。いや、さすがにこんなコテコテの死神が来るなんて驚いたが、つまり俺が死ぬっていうこと自体には、やっぱりね、という諦めのような思いがあった。
 俺はここ一年、ずっと病院に入院しているのだ。
「俺は死ぬのか」
「はい、死にます」
 随分とあっさり言ってくれるな、と笑いたくなるが、それよりも先に死神が骨の手で顔を覆い、「ううううぅぅぅ……」と唸るので、笑いが引っ込んでしまった。
「何してるんだ?」突然のことに思わず聞いてしまう。
「いえ、あたしね、今日誕生日なんですよ。2034歳になる誕生日。なのに、もうすぐ日付が変わるっていうのに、仕事、それもあなたの命を終わらせる仕事だなんて、あんまりだとは思いません?」
 死神に誕生日なんてあったのか、と言おうかとも思ったが、やめた。どうやらこいつは感情表現豊かな奴で、なんだか悪い奴だとも思えなかったからだ。
「それは、大変だな。どの仕事も、今は不景気だしな」
「そう、不景気なんですよ。ここ最近、人間たちの寿命が延びに延びてなかなか死なないし、お陰様でこっちは商売あがったりなんですから」
 商売なのか死神って。一体、どのようなシステムで儲けが生まれるのか気になったが、俺には関係なかった。なぜなら俺はもうすぐ死ぬからだ。
「ほら見てくださいよ」と死神がどこから出したのか、真っ白いバースデーケーキを両手に抱えている。
「今日、祝うために買ったんですよ。自分で」
「自分でって、寂しい奴だな」
「……誰も、祝ってくれなくて」
「すまん」
 死神が抱えるバースデーケーキに突き刺さった一本の太くて長い蝋燭に灯っている火が、カーテンで仕切られた俺のベッド周りをオレンジ色に照らしている。
「俺が祝ってやるよ」
「え、いいんですか? これから死ぬのに」
「どうせ死ぬんなら、誰かを祝いながら死にたいよ」
「ありがとうございます!」
 それから俺は、小声でハッピバースデトゥユーを歌ってやる。なんだか、人生の最後に面白い思い出が出来て、嬉しかった。もし天国とか地獄があるのなら、先に逝っている奴らに自慢してやろう。俺は死神の誕生日を祝ってやったんだぜ、と。
「お礼に、あなた、あたしのバースデーケーキの蝋燭、吹き消してくださいよ」
「おいおい、普通は主役のお前が吹き消すもんだろ?」
「でも、あなたの死亡日でもあるんですから」
 そう言われると、無性に目の前の蝋燭の火を吹き消したくなった。
 俺は肺いっぱいに空気を吸い込む。そして一気に吐き出そうとした瞬間。
「おやすみなさい」
 死神は確かにそう言った。
 蝋燭の火が消えた瞬間、俺の意識は薄れていき、最後には消える。
 
「今までのやり方じゃ、商売あがったりなんでね。まだ寿命がある人の命を持っていかなきゃ、利益、出ないんですよ」

012.スキマビジネス

 技術の進歩というのは、人が考えているよりも早く、そして凄いらしい。

 ほんの十年前までは、脳をネットワークに繋ぐなんてことはSFアニメの世界だったらしい。だが今ではそれがもう一般化していて、もはや日常生活には欠かせないものとなっている。老若男女問わず広く普及したのは、施術が簡単で安全、そして安価だという理由もあるが。(血管にネットワーク接続マイクロマシンを注射し、脳のレセプターにそのマイクロマシンが収まることで施術は完了する)
 しかしこれほど画期的な技術が開発されたとしても貧困というものはなくならない。
「何度見ても少ないよなぁ、数字……」
 私はモバイル端末で電子マネーバンクの残高を何度も確認しては、その度に溜息を吐いている。
「最近働き口もないし……かといって特殊な職に付けるような資格も持ってないし……」
 私は数少ない有人コンビニエンスストアのバイトを先日解雇にされたばかりだった。とうとうそのコンビニエンスストアも無人化営業することに決まったらしい。そのほうが費用を抑えられるからだ。
「技術が進歩するのも考えものだよ、全く」
 いくら眺めていても電子マネーの数字は増えないので、モバイル端末をベッドの上に放り投げる。
 貯金もなければ無心できる家族も友人もいない。さてどうしたものかとベッドに寝転がりながら悩んでいたら、先日ネットをしていたとき脳に送られてきた広告記憶のことを思い出した。(広告記憶、広告チラシや広告メールのような広告が記憶データとして送ったり受け取ったりできる技術。つまりマーケティングターゲットに送った広告を『思い出させる』ことができる)
『スキマビジネス始めてみませんか? 何の資格も経験もいりません! 余ったところで賢く稼げる!』
 記憶にはこういった宣伝文句が残っている。なんだか怪しいが、今は何にせよ金が欲しい。生活すらままならない状況なのだ。四の五の言っていられない。私は記憶されていた住所へと行ってみることにした。
 
「スキマビジネスというのはですね、脳のスキマを使うんですよ」
 私を出迎えてくれたのは、広告記憶を流した企業の担当者、若く可愛らしい女性であった。
「へえ、脳のスキマ、ですか」
「人の脳というのは、普段は全体の10%程度しか使われていないんです。ただし使われている10%の部分というのは常に同じ部分ではなく、運動したり本を読んだり音楽を聴いたりで、使われる部分は変わっていくんです」
「なるほど、勉強になります」
「ですがその余った90%をそのまま眠らせておくのは勿体なくはないですか? そこで私たちが提案するのがスキマビジネスです」
「つまり、『スキマ』というのはその余った脳の部分、90%のことを言っているので?」
「その通り! なぁんだ、飲み込みが早いですねぇ」
「いやあそれほどでも」
「そのスキマを、我々にお貸しください。お貸ししていただいた期間に応じて、我々どもから貴方様に報酬をお支払いします」
「貸す、ですか……ちなみに報酬というのはどれくらい……」
 担当者の女性はホログラムディスプレイを指先でスイスイと操作し、数字を表示させる。……驚いた、なかなかの金額じゃないか。有人コンビニエンスストアのバイトよりも良い。
「こんなに貰えるのですか!?」
「ええ、ただ現在はこの金額、ということです」
「現在は……?」
「このスキマビジネスに参加してくださる方が多ければ多いほど、一人当たりの報酬は当然減っていきますからね」
「さ、参加させてください!」
 報酬が減るのなら今のうちに稼いでおかなければ。私は説明をほとんど聞かずに、このスキマビジネスに参加することにした。
 契約書にサインして生体情報を登録し、そして施術に入る。通常、脳にアクセスできるのは脳の持ち主である私だけだが、この施術により脳へのアクセス権を企業も持つことができるらしい。施術内容はマイクロマシンを注射するという簡単なものであった。
 施術後も大した変化はないように思える。こんなもので金が貰えるのか、と私は半信半疑ながら帰宅した。
 
 バイトを解雇されて以来、人と会っていなかったからか、なんだか非常に疲れていた。家に帰った後はすぐベッドに潜り込み、あっという間に眠りについた。
 そして朝、起床してモバイル端末を見る。
「……本当に金が振り込まれている」
 モバイル端末の画面には、電子マネーバンクが表示されている。金額が増えている。
「何もしていないのに金が貰える時代が来るなんてなぁ」
 とうとう貧困がなくなる時代が来たのだろうか。昨日までの憂鬱が嘘のように、気分が晴れやかだった。今ならなんでもできそうだ。
「寝ていても脳は企業が勝手に使ってくれるからな」
 一日中ずっと寝ていてもいい。観たかった映画を観てもいい。聴きたかった音楽を聴いてもいい。なんて自由なんだ。
「でもまずは、飯だな飯。人間、どんなに技術が進歩しても腹は減るんだ」
 金も入ったし、少し良いものも食べたい。そうだ、肉が食べたい。それも牛肉、ステーキなんて良いだろう。私はさっそく記憶領域にストックされた広告記憶を漁る。ステーキ店の広告をいくつか思い出した。
「お、この店なんて良いな。ここに行ってみようか」
 私は久々に食べられるステーキの味を想像しながら家を出た。
 
「しかし、きみのところはまたしても素晴らしい広告技術を開発してくれたね」
「いえいえとんでもない。既に一般化されている広告記憶を少し先に進めた程度の技術ですよ」
「そんな謙遜するんじゃないよ。これはすごい技術だよ。報酬を餌に人を集め、脳へのアクセス権を手に入れる。そしてその人たちの無意識領域に、ある特定の企業の商品や店を好きになるようインプットする……」
「すると報酬に釣られた人々は、おたくの賞品や店舗を贔屓するようになる、無性に買いたくなったり食べたくなったり行きたくなったりする……」
「はっはっは! 笑いが止まらんよきみぃ!」
「このスキマビジネスに参加する人が増えれば増えるほど、おたくの売り上げは伸びて、我々が頂ける報酬も増えますからね! あっはっは! まさに人々の心のスキマを突いたビジネスですよ!」

011.あなたの信じる死神

 俺の最後の記憶は、食パン咥えて走ってきた女の子と道の角でぶつかり、道路へと突き飛ばされて、そこに大型トラックが迫ってくる、という光景だ。

 そして今、俺の目の前には俺自身がいる。いや、いるというよりもあるって感じだ。なぜなら目の前の俺は、首や手や足といった関節すべてが捻じれ、それぞれが好き勝手な方向に伸びている。そして俺の着ていたワイシャツを染めるどす黒い赤。生気がなく濁った眼。
「あ、これ俺死んだやつだわ」
 さすがに目の前に自分の死体があると認めざるを得ない。つってもなんだか俺は冷静で、うわー自分ながらキモい死に方しちゃってるわーってドン引きしている。
「それにしても、幽霊とか本当にあったのな。そっちのほうがびっくりだわ」
 一度俺は今の身体を見る。服装とかは生きていたころのものと同じで、だけども全体的に半透明、そして何より宙に浮いていた。方向を念じると、ふわりふわりと漂うみたいにして移動できる。
「驚かれるのも無理はありませんよ。みなさん、死んだことよりもむしろ幽霊の存在に驚きますからね」
 と急に後ろから声をかけられて、振り向いてみるとスーツを着て、黒縁メガネをかけた気真面目そうな男が立っていた。いや浮いていた。しかも半透明。
「あれ、あんたも幽霊?」
「幽霊と似たようなものですが、正確には違いますね。私はこの地区を担当しております死神です」
 へえ、死神。とこれまた俺は冷静なんだが、まあ幽霊がいるなら死神もいておかしくないだろう。けれども、思っていた死神のイメージとはえらい違いだ。
「ふうん、死神ね。んで、俺の魂とか刈っちゃうわけ?」
「そんなことしませんしできませんよ。私の仕事はこの現世から霊界に送り届けることです」
「霊界?」
「はい、そこで色々と手続きがありますが、簡単に言ってしまえば天国か地獄かに分けられます」
「地獄って、おいおい地獄に行くこともあるのかよ」
「事前調査のためにお聞きしますが、あなたは生前人を殺したことがありますか?」
「いや、ねえけど」
「それならたぶん天国ですよ」
 ってすっげー簡単な判断基準だな。っても、まあ小さな罪でどいつもこいつも地獄に送っていたら、切りがないんだろうな。
「ではまず、法律によって定められた死亡税を徴収します。現在お金はいくらお持ちですか?」
「税、って金取るのかよ!?」
 金って言っても俺死んでるし、って思いながら生きているときに財布を入れていたポケットに手をやってみる。あ、財布あるわ。中身も……入ってる。
「高校生だし5000円と小銭程度だけど」
「それでは半分の2500円徴収いたしますね」
「あ、はい」
 半透明な五千円札を差し出して、俺は役人じみた死神からお釣りとして半透明な千円札二枚と五百円玉一枚を受け取る。
「それでは霊界へご案内しますので、ついてきてください」
「あのさ、その前にさ、色々と家族とか友達とか見ておきたいんだけど」
「今はできませんよ。霊界にて現世交霊申請を行ってください。なお現世降霊は混雑しておりますので、申請して、大体現世時間に換算すると五年半はかかります」
「ちょちょちょ、そんなに待ってらんないよ。すぐ、すぐ済むから! な?」
「駄目ですって……ちょっとどこ行くんですか!?」
 俺はその役人じみた死神の制止を無視して、自分の家がある方向へと念を送る。すると俺の半透明な身体はスーッと進んでいく。
「すぐだから! 待っててくれよ!」
 俺はまず自分の家に行くことにした。
 
 住宅街にあるこじんまりとした一軒家。それが俺が住んでいた家だ。
 さて、一体どうやって家の中に入ろうか、と考え込んでいたら家の戸が突然開く。出てきたのは涙で顔がぐしゃぐしゃになってる俺の母親。
 あちゃー、さすがにこういうの見ちゃうとなー、申し訳なくなっちまうよなー。孫の顔も見せることできなかったし。でもまあ、いずれ天国で会えるだろう。
 さーてオカンの顔も見れたし次は友達のあいつの顔でも見に行こうかなーって思っていたら、また声をかけられる。
「おいそこのお前、止まれ!」
 そいつは警察官の格好をしていて、これまた半透明で空中に浮いている。
「止まれって言うんなら止まりますけど……もしかして、おまわりさんも幽霊?」
「本官は幽霊ではない! 貴様らのような違法幽霊を取り締まる死神警察だ!」
 け、警察? 冗談言ってんのか? って、おまわりさんはどう見ても冗談言っている様子じゃない。
「あ、あのですね、俺さっき死神の人と会いましてですね、霊界に行く前に家族とか友達とかの顔を見るってんで、今待ってもらってるんですよ」
 って、俺はちょっと嘘を混ぜながらも説明する。
「そんなことは関係ない、違法は違法! 貴様を現世違法滞在の罪により逮捕する!」
 死神警察がこちらのほうに詰め寄ってくるので、俺は慌てて逆方向へと逃げる。
「必ず、必ず戻ってきますんで見逃してください! それじゃ!」
「待ちたまえ!」
 幽霊になって間もない俺だったが、なんとか逃げ切ることができた。生きている頃、足が速かったことが関係しているのかもしれない。
 
 生きていないから息切れしないとはいえ、妙な疲労感があった。
「幽霊も……疲れるんだな……」
 しかし役人風の死神といい、死神警察といい、死んだ先の世界にも色々あるんだな。こりゃ生きてても死んでもあまり変わらないんじゃないか?
「お疲れのようですね」
 ってまたまた急に声をかけられて、俺は慌てる。
「な、なんだお前! 死神……えーと、役人か!? それとも警察か!?」
 声をかけてきたそいつは、妙にニコニコしながら近づいてくる。もちろん半透明で浮いている。
「申し遅れました、わたくし、死神商店株式会社のものです」
「し、死神商店……?」
「ええ、あなたの死をより美しく充実したものにするための、死神でございます」
「なんかよく分からないけど、そういう死神もいるんだな」
「まずあなた様のご要望は、ご友人と面会したいと察しておりますが、そういったプランもこちらではご用意しております」
「あ、会ってもいいのか!?」
「もちろんでございます」
 あの二人の死神と違って、こいつは良い死神だなぁって思っていたら、販売員風の死神は電卓を取り出してパチパチ打ち込んで、こっちに差し出してくる。
「これくらいのお値段になりますが」
「何々、75000円って高いなおい! っつーか金取るのかよ!」
「こちらも商売ですから」
 商売って、生きていないのに商売して何の意味があるんだよ……俺は財布の中身を見せる。
「さっき税金で取られて、今は2500円ぽっちしかないんだよ。何とかならないか?」
「ッチ、何ともなりません。ですが、働きになればよろしいのでは?」
「死んでるのに、働けるのか?」
「ええ、そういうところがございますので。よろしければわたくしのほうでご紹介しても」
「それは助かる!」
 販売員風の死神は一枚のチラシを取り出した。
『23時間労働! アットホームな職場です! 未経験者大歓迎! 自給350円!」
「ふざけるんじゃねえよ! そんなところで働けるか!」
「やれやれ、お金がなければどうしようもないというのに……仕方ありませんね、強制労働させます」
 強制労働なんてするものか! と俺はまた大慌てで逃げ出す。
「あ! 見つけましたよ! 早く霊界に行きますよ!」
「見つけたぞ貴様! 逮捕だ逮捕!」
「さあさあ強制労働で永遠に我が社のために働きなさい!」
 どこからやってきたのか、役人風の死神と警官風の死神も追ってくる。
 俺はこんな死神なんぞ信じるものか!
 
 気が付いたらあたしは空中に浮かんでいて、半透明だった。ありゃりゃーって下を見ると、バラバラになって飛び散っているあたしの死体。あ、そうだった、あたし自殺したんだった。てへぺろ
「あーあー、死んだら楽になると思ったのに、幽霊になるとはねぇ……」
 正直、もう何も考えたくなかった。無になりたかった。
「そう悲観するんじゃねえって」
 急に声をかけられる。驚いて振り向くと、ワイシャツを着た、あたしと同じくらいの歳の、半透明な男の子が浮いている。
「俺は死神。どうだ、最後に家族や友達、恋人に会いたくはないか?」
 誰にも会いたくなんてなかったし、何も思い残すことはなかった。思い残したくなんかなかった。
「何もないって感じだな。でも一つだけ言っておく。どんな死神を信じるか、どんな死を選ぶか、お前の自由だ」
 男の子の死神は、笑いながらあたしに手を差し伸べた。

010.トラモンクエスト

 勇者、それは世界を支配しようとする魔物の王、魔虎王を倒す存在である。そしてラトは代々勇者の家系であった。つまり父親も勇者であった。

 しかし父親は魔虎王を倒すも、命を失ったという。魔物の総本山である魔虎城へ向かう前に、父親はラトを身籠っていた女戦士の母親を村へと置いていった。その村でラトは生まれたのである。
 母親から父親の武勇伝を聞かされたラトは、すくすくと立派な男へと成長した。そしてラトが十八歳になったとき、帝国の王から呼び出しを受けた。
「魔虎王が復活し、魔物たちを率いて世界を襲っている。勇者ラトよ、父親のように魔虎王を倒すのだ」
 王から与えられた使命であった。ラトは戸惑いつつも、同じく勇者であった父親のような男になるため、魔虎王を倒すべく、旅に出た。
 辛く険しい旅であった。数々の試練、戦い、世界の全てを周り、時には仲間を得て、そしてまた時には仲間を失った。
 
 時は流れ、ついに勇者ラトは魔虎城へ向かうときがやってきた。
「リレン、きみはこの村に残ってくれ」
「ダメよラト、たった独りで戦おうだなんて」
 勇者ラトは、縋るリレンのお腹にそっと手を当てた。
「大丈夫だ、ぼくは必ず戻ってくる。きみのために、そしてこのお腹の子のためにもね」
 リレンはラトの手を握った。お互い、固く、そして傷だらけの手であった。しかし温もりは伝わってくる。そこには人の優しさが詰まっていた。ラトは手を握り返し、必ずまたこの温もりを味わおうと心に誓った。
 次の日、渋るリレンに後ろ髪を引かれながらも、勇者ラトは魔虎城へと向かった。
 魔虎城の国、そこは酷く荒廃した土地であった。冷たく乾燥した風が常に吹き荒れ、あちらこちらに根を張る毒花の花粉が舞い散り、ラトの体力を削っていく。
 事前に用意しておいた薬を飲みながら、ラトは一歩一歩、遠くにあるも大きくそびえ立ち、威圧を向ける魔虎城へ足を進めていった。
 絶え間なく襲い掛かる魔物の集団、魔虎城を守る屈強な門番を倒し、勇者ラトは魔虎王の前についに辿り着いた。
「フハハハ、よくぞここまで来れたものだ。誉めてやろう、勇者ラトよ」
 魔虎王、その姿は大きく、そして醜いものであった。岩のように盛り上がった筋肉が全身に鎧のように纏わりついており、また魔法を帯びた毛皮がジリジリと炎のように恐ろしく蠢いていた。
「どうだ、ラトよ。貴様に世界の半分をやろう。我の部下にならぬか?」
「ふざけるな魔虎王! 魔物風情が、貴様の配下に加わるくらいなら、死んだほうがましだ!」
 ラトは、魔虎王の放つ強大な力のオーラに身を震わせながらも叫んだ。負けるわけにはいかない、帰りを待っている人がいる。リレンのことを思うと、不思議と力が湧いてきた。
「ならば死ぬがいい、勇者ラトよ!」
 魔虎王の巨大な手がラトに振り下ろされた。虎のような爪が付いた手、その爪はどんな名剣よりも鋭い。
 ラトはそれを剣で受け止めず、素早く身を翻してかわした。そのとき魔虎王に大きな隙ができた。
「そこだ、食らえ魔虎王! 貴様に殺されていった人々の無念、苦しみ、悲しみ、そして怒りをその身で受けろ!」
 ラトは己に残された全ての魔力を剣に込めた。ラトが使おうとしているそれは、魔物との戦いで死んだ仲間、剣士テリーヌが残した技だ。
 光り輝き始めるラトの剣、薄暗い魔虎城を白く照らし出すほど、強く、熱い眩きであった。
 ラトが剣を振りぬいた時、確かな感触を感じた。重くも柔らかい、肉を切断した感触。ラトは魔力を出し切った疲労によりその場に跪いた。
「フ、フフフ、見事だラトよ」
 ラトが振り向くと、そこには口から大量に血を吐き倒れている魔虎王の姿があった。
「だが覚えておけ、たとえ我が倒れようとも、きっと第二、第三の魔虎王が誕生するであろう……勇者がいる限りな……」
 魔虎王はそう言い残すと、全身から黒い炎が噴き出した。標的を焼き尽くすまで消えないという闇の炎だ。
 そうして魔虎王は一つの骨も残さずして死んだ。ラトはこれまでの疲れと、今の勝利による脱力感から、強烈な眠気に襲われた。安堵したラトがそれに勝てるはずもなく、冷たく固い石床の上でしばしの眠りについた。このとき小さな疑念がラトの心の中に湧いていたが、甘くのしかかる眠気には些細なことであった。
 
「起きてくださイ、勇者ラトさマ」
 ラトは何者かによる揺さぶりで目を覚ました。そうだ、ぼくは魔虎王に勝ったんだ。夢じゃないんだ。と寝起きの頭で思い出しながら瞼を開き、自分を起こしたものの姿を見た。
「おはようございまス」
 ラトの目の前にいたのは、丁寧に挨拶をする骸骨の魔物、スケルトンであった。ラトは驚きながらも素早く手慣れた動きで腰に差してあるダガーを抜き、スケルトンに向ける。
「何のつもりだ魔物め! 戦いはもう終わった! お前の主、魔虎王は死んだんだ!」
「その通りでございまス。我らの偉大なる魔虎王はお亡くなりになりましタ。これから国葬の準備に我々は取り掛かりますゆエ、ラト様は我らが用意したお部屋にてお休みいただきたく思いまス」
「国葬……葬式か、魔物が随分と人間らしいことをするじゃないか」
 ラトはスケルトンの動きを一つも見逃してやるものか、と目を鋭くしながら答えた。
「我々にもあなたたちと同じように知性がありますゆエ……どうぞこちらエ、お部屋にご案内しましょウ」
 スケルトンはうやうやしく頭を下げ、ラトへ骨の手を差し出した。
「ふん、油断しているところを刺そうなどと思うな。ぼくはこれから人間の村に帰る、貴様らが用意した部屋でなど休むものか」
「しかし、先ほどの戦いで、魔虎城の国と人間の国とを繋ぐ橋は崩壊しましタ。修繕にはしばし時間がかかりましょウ」
 仕方なく、ラトはスケルトンについていき、用意したという部屋へと向かった。
 その部屋は薄暗く、酷く寒かったが綺麗で、手入れが行き届いていた。ラトは思わず久々の柔らかいベッドの上に寝転がった。
「何かご不便がおありでしたラ、何でもお申し付けくださいまセ」
 カタリカタリと骨の音を立てながら、スケルトンは言った。
「やけに礼儀正しいじゃないか。俺をどうするつもりなんだ?」
 ラトはまたダガーをスケルトンに突き出しながら迫った。
「戦争は我々の負けでス。勝利した者には従ウ、当然のことでありましょウ」
 釈然としなかったが、ラトは無理やり納得することにした。そして魔物たちはこれを戦争だと思っていたことに、ラトは少しだけ衝撃を受けていた。これは対等な立場同士の戦争ではない、正義と悪の戦いであると思っていたからだ。
 それからしばらくして、魔虎王の国葬が執り行われた。
 獣人、ゴブリン、スライム、デーモン、ダークエルフ、ドラゴン、様々な種族の魔物たちが列をなし、空っぽの棺に涙を流しながら祈りを捧げていた。
「何というか、慕われていたのだな、魔虎王は」
 魔物たちの、魔虎王への忠義がそこにはあった。魔虎王は絶対悪だと思っていたラトは、戸惑いながらも悪い気はしなかった。むしろ感動すらしていた。
「当然でス。人間たちにとっては恐ろしい存在であったかもしれませんガ、我々魔物たちにとっては指導者であリ、勇敢な戦士でもありましタ。この荒廃した土地で飢える魔物たちを救おうたメ、人間たちが支配している豊かな土地を手に入れようト、戦い続けたのですかラ」
 人間は、魔物だというだけで人里にやってきた魔物を容赦なく殺していた。ラトももちろんその一人であった。そこに正義や悪などはなかった。それが当たり前だと思っていたのだ。この土地は人間のものだと、当然のように思っていたのだ。
 だがこの魔虎王の国葬を見て、ラトの中で考えが変わっていた。人間と、知性を持つ魔物たちは何も違わない。ただ姿形だけが違うだけだ。
 ラトの中の正義が音を立てて崩れていった。
 
「いやぁ、ようやくこちらに来ることができましたよ。それにしてもこの度はよくやってくれましたね、勇者ラト殿。王もお喜びですよ」
 王に派遣された魔虎城担当大臣が、王宮魔術師の転送魔法で魔虎城にやってきた。
「しかし時間がかかったうえ、私一人しか来られないとは、誠に申し訳ない。この魔虎城の周辺は複雑な魔力のうねりがあってですな、様々な手段を用いて、私しか送り出すことができなかったんですよ」
 つまり転送魔法は行き限定で、大臣とラトが人間の国に帰るには魔虎城の橋を修繕するしか方法がないのであった。
「とんでもない、こちらに来られただけでも、そのご苦労を労う価値はありますよ」
 久々に人間に会えたラトは単純に嬉しかった。自分と同じ種族のものと会えたということもある。だがそれよりもラトは、ここで見て聞いたことを誰かに話したくて仕方がなかったのだ。
「大臣、聞いてください。まずここ魔虎城の国なんですが、酷く痩せた土地でして、ここの食糧問題など環境を改善しなければ、魔物たちはいずれまた人々を襲うでしょう」
「ほほう、改善ですか。興味深い話ですが、ラト殿、それは必要ありません」
「必要ないとはどういう意味ですか?」
「魔物たちは我が帝国の戦力となりうるものだけ生かします。それ以外は殺処分、それが王が下された命令です」
「殺処分だと! それでは魔物たちは余計人間たちに憎しみを抱きます! 争いは終わりません! 魔物たちも我々人間と同じように生きているのですよ!」
「そう、生きている。だから我々人間たちが野蛮な魔物たちを管理し、有効利用し、無駄なものは処分するんです。ラト殿、一体どうされたのですか。人が変わったようですよ」
「有効利用だと……」
「そう、今、王宮魔術師たちが魔物たちを操る魔法の首輪を作り始めています。魔法の首輪を付けられた魔物は、人間の命令に逆らうと死よりも辛い苦しみが襲うのです」
「悪魔め……」
「はい? 何かおっしゃいましたか?」
 ラトは何も言わず、部屋へと戻っていった。
 こんなにも人間は醜いものだったのか。ラトは頭を抱えながら、涙を流した。大臣が来るまでにラトはこの国の現状を見ていた。飢えに苦しむ魔物の子たち。毒花の花粉による病気に苦しみながら死んでいく魔物たち。そしてそれを悲しむ魔物たち。
 それを知らず、人間たちは豊かな土地で無意味な争いを続けているのであった。その争いに、無関係な魔物たちを利用しようとする帝国の王。ラトは抑えきれない怒りから、ある決断をした。
 
 トラゴラム、それは禁じられた魔法であった。その魔法を使ったものの身体は虎に似た獣人のものとなり、強大な力を手に入れる。しかし代償として二度と人間には戻れず、また死すときその身体は闇の炎に焼かれ骨一つ残らない。
 だがそんなことは些細なことのようにラトには思えた。自分がその代償を負うことで、この魔虎城の国の魔物たちを救えるかもしれない、その考えがラトにトラゴラムの呪文を唱えさせた。
 全身が焼けるように痛み、破裂するのではと思えるほど身体は大きく、そして固くなっていく。
 あらかじめスケルトンに頼んでおいたので、城にはこの国の魔物全員が集まっていた。
「我は魔虎王! 我はこの瞬間、お前たちの王となった!」
 ラトは高らかに、魔物の群れへ吠えた。
 そのとき、ラトが以前抱いた疑念が綺麗に晴れた。
 どうしてあのとき魔虎王は、ああもあっさり倒されたのか。どうしてあのとき魔虎王は、自分を殺した剣の腕を誉めてくれたのか。どうしてあのとき魔虎王は、『第二第三の魔虎王が誕生する、勇者がいる限り』と言ったのか。
 玉座に座る魔虎王ラトにスケルトンが近づき、囁いた。
「先代の魔虎王、いえ父上もお喜びでしょう」
 
 ラトが魔虎王となったとき、遠く離れた人間の村で、リレンはラトの息子を生んだ。それは新しい勇者の誕生であった。