015.望世界

 ぼくたちは進化した。

 あらゆる壁を乗り越えられる力を、あらゆる穴をよじ登れる力を、あらゆる海を泳ぐことができる力を、あらゆる空を飛ぶことができる力を、ぼくたちは手に入れた。
 望めば何もかも手に入る力。何かを考えるだけでそれが実現する力。その力はとっても危険だけど、ぼくたちはそれを優しさで制御しようとしている、そんな世界。
 
 朝がやって来る。どんなに楽しい一日だって、目覚まし時計に起こされるのは辛い。朝なんてやって来なければいいって思えば太陽は昇らないかもしれないけれど、それは思考管理局の人たちが許してくれない。まあまず無理で、この世界の秩序を保つ最低限の事象は思考管理局の人たちが強力な思考で常にそれを維持している。
 仕方ないのでぼくは起きて、思考する。『身だしなみ整え』って。
 するとぼくのボサボサ寝癖はあっという間に整えられて、目やにがついた顔も綺麗になって、歯もツルツルに磨かれている状態になる。
「おはよー」
 寝起きから数秒で朝の支度を終えて、ぼくは一階に降りてお母さんとお父さんに挨拶する。
「やあコウイチ、いつもより寝坊助なんじゃないか?」
 ってテーブルに座ってコーヒー片手にお父さんが笑う。
「コウイチ、早く朝ご飯食べちゃいなさいよ」
 ってトーストにマーガリンを塗っているお母さんが言う。
 ぼくはテーブルに座りながら思考をする。さて、今日の朝ご飯は何がいいかな。お米とパン、朝はあんまり食べられない体質だから、軽めのパンにしよう。ぼくはトーストを思考する。
 じんわりとテーブルの上に、お皿に載った焼きたてのトーストが浮かんでくる。そのイメージをつかむように、僕は手を伸ばす。
「いただきます」
 その気になれば栄養を摂ったっていうことを思考すればいいんだけど、精神衛生上、食事をしたほうがいいって思考管理局の人たちは言っている。
 トーストをサクサク齧りながら学校へ行く準備を始める。準備と言っても鞄の中に教科書やノート、筆記用具が入れられる思考をするだけ。
 トーストを数枚食べて、牛乳を飲んで、ぼくは学校に行くことにする。
「それじゃあお父さん、お母さん、行ってきます」
 学校を思考する。見慣れた家の風景が、ぴんぼけの写真みたいに滲んでいって、代わりに教室の風景が浮かび上がってくる。
「よっ、コウイチ」
 気が付くとそこはもう教室の中だ。友達のネンちゃんがぼくのほうへとやってきて挨拶してくれる。
「おはよ」
 学校、思考すればどんなものだって手に入る世界だけど、やっぱり勉強は大事だってことでぼくたちは通っている。知識がなければ有益な思考もできないからだ。ここでは世界に有益な思考の知識と、この世界を保つ優しさを学ぶ。
 スーツ姿の先生がいつの間にか教卓に立っている。
「やあみなさんおはようございます。思考で測ったところ、今日もみなさん全員出席していますね。それでは授業を始めます」
 授業は歴史と道徳が主で、選択科目で数学や文学、物理化学や生物化学なんかも学べる。ぼくたちが自由で素晴らしい思考をするために組まれたカリキュラムらしい。
 一時間目の歴史と、二時間目の道徳の授業を受けた。次の三時間目は選択科目で、ぼくは文学の授業だ。
 文学はなかなか人気の授業だ。どうしてかって、それはぼくたちの娯楽であるドラマやアニメ、映画、マンガ、小説なんかはストーリーを思考できる人たちにしか作ることができなくて、ぼくも含めてみんな、いずれはそういうのを作ってみたいって考えているからだ。
 でも文学の授業を受けただけでストーリーを作ることは中々難しくて、だからストーリーを思考できる人たちは尊敬される。思考するだけで何でも手に入る世界だけど、唯一、人からの尊敬は手に入らない。
「あーもう、登場人物の気持ちとかさ、読み取れるかよ。ムズイって。やっぱストーリー作るのは俺には無理かなー」
 ってネンちゃんがお昼ご飯を食べながら愚痴る。ネンちゃんはステーキを思考したみたいで、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てている牛肉をナイフで切って口に運んでいる。
「分かんないって。ほら、有名なストーリーテラーだって、文学の授業を受けたことがない人はたくさんいるじゃん」
 ぼくは辛い台湾ラーメンを啜っている。最近のマイブームだ。
 お昼ご飯を食べ終えたら学校は終わり。後は夕ご飯まで自由に遊んでいいことになっている。
 ぼくは図書館に行く思考をして、一瞬で移動する。そして図書館司書の人から色んな本の知識をもらう。それも一瞬だ。図書館司書の人が知識をあげたいと思考すれば、即座にぼくの頭の中に入ってくる。
 家に帰りながら、もらった本の知識を反芻する。ストーリーの流れをつかむためだ。文学の授業ではやってないことだけど、ぼくはストーリーの流れを理解することが、ストーリーを作るうえで大事だと思う。だからぼくはあえて家を思考して一瞬で移動せず、自動で移動する乗り物を思考して、時間をかけて家まで帰ることにしている。
「ただいまー」
 とぼくはお父さんとお母さんに挨拶をして、テーブルに座る。
「おかえり、今日も楽しかったかい?」
 お父さんが笑いかけてくる。
「うん、楽しかったよ。充実してた」
「それは良かったわね」
 お母さんが夕ご飯をテーブルに運んでいる。夕ご飯は、家族一緒に同じものを食べるのがルールだ。今日の夕ご飯は唐揚げとか野菜炒めとか味噌汁とか色々。
 夕ご飯を食べ終えて、歯磨きの思考をして、ぼくはベッドに潜る。明日は何をしようかなって考えながら、やってくる眠気に身を委ねる。
 
 一人の少年が眠りについた。すると世界は完全な闇となる。闇に覆われるのではない、全てが闇に、無になるのだ。少年が身体を横たわらせていたベッドも、家も、地面も、空も、地球も、月も、星も、宇宙も。
 そこには眠る少年だけがあった。穏やかに寝息を立てている少年、彼の本能の思考が彼を生存させるための最低限の空気を生み出している。
 少年が目を覚ませば太陽は昇り、目覚まし時計が鳴るだろう。そしてまた彼の思考により家が出現し、彼の両親もまるでずっと存在していたかのようにそこにいるだろう。少年の日常生活は、ずっと続くであろう。
 だがこの世界がすでに、この一人の少年、進化した少年の力により消滅していることを、彼が知ることはない。
 望めばそれが実現する力、それは希望なのか絶望なのか、それを判断できる人間はこの世界には存在しない。