029.母の手のひら

 度重なる環境汚染によって引き起こされた異常気象、生態系の崩壊、内乱や暴動により、人類は多くの命を失った。

 また生き残った者たちも、過酷な環境の中では以前のような快適な暮らしはできなかった。
 少ない食料を分け合い、そして時には奪い合い、未来というわずかな希望を抱きながら暮らしているのであった。
 
 少年マモルは荒廃した土地をひたすら歩いていた。目的地はこの先にある集落。そこには数少ない生き残りの人が暮らしており、また試行錯誤ではあるが農作物の栽培がおこなわれている。
 マモルもつい最近まではそうした集落に住んでいた。しかし住人同士の内乱や、凶悪な害獣の襲撃により壊滅してしまったのだ。
 そこに、なんとか稼働している通信機に連絡が入った。通信機に出力された文章、それは集落への誘いと、そしてマモルの母親がそこで暮らしているという内容であった。
 今まで死んだと思っていたマモルの母親が生きていた、それだけでもマモルにはその集落を目指す理由として充分なものだった。
 辛く長い旅であった。何度も死にそうになりながらも、決して諦めなかったマモルはとうとう集落へと辿り着くことができた。
「不審人物、住人登録されていない、排除しますか?」
 頑丈そうな鉄製の高い門を開けたマモルを出迎えたのは、この世の者とは思えないほどの美しい女性であった。
「……アンドロイドか」
 異様なまでの美しさから、マモルはその女性が人間ではなくアンドロイドであると見抜いた。それほどその女性の肌の白さや整った顔立ちは、今の時代には不釣り合いのものであった。
「待て待てアイ、彼は今日からここの住人になる者だ。怪しい者ではないよ」
 向こうから慌てて一人の男が走ってきた。薄汚れた白衣を着ていて、ひび割れた眼鏡をかけていた。
「すまないねマモルくん。私はムラモト、この集落の住人さ。そして彼女はここのボディーガード兼、家政婦みたいなものさ」
「彼女、ってアンドロイドですよね、これ」
 マモルは酷く冷たい口調で言い切った。
「これって、アイはここでは家族同然なんだよ……」
「アンドロイドはアンドロイドですよ」
 マモルは睨みつけるようにアイに鋭い視線を向けた。
「それよりも、母さんはどこにいるんですか」
「ああ、きみのお母さんのことなんだが……」
 ムラモトは悲しそうな顔をして、呟くように言った。
「つい先日、亡くなったよ。この汚染された空気に肺をやられてね……」
「死んだ、のですか……」
 マモルも呟くようにして言葉を返した。
「もっと早くマモルくんに連絡が取れれば良かったんだが、通信機を修理するのに戸惑ってね……」
「そうですか」
 マモルはボロボロのアパートの一室を割り当てられた。長旅の疲れもあってか、かび臭い布団に潜り込んだ途端、即座に眠りに落ちた。
 
 ふとマモルは目を覚ました。久々に嗅ぐ、食欲を誘う良い匂いがしたからだ。布団から体を起こして周りを見てみると、小さい台所のほうに人影があった。
「おはようございます。昼食の準備はできています」
 綺麗で心地良い声色。しかし感情を感じられない、抑揚のない声。
「お前はどうしてここにいるんだ」
 マモルは顔を顰めた。台所にて食事を作っていたのは、アンドロイドのアイであった。
「ムラモトさんより、あなたの食事を作るよう言われましたので」
「勝手に入ってくるな!」
 マモルは怒鳴りながらアイの肩を掴み、引っ張った。
「以前お会いしたときから、あなたは私に憎悪に似た感情を抱いているように思われます。なぜですか? 回答の入力を。改善します」
「憎悪に似た感情、だって……ふん、ぼくはお前が、アンドロイドが大嫌いなんだよ! 改善するもなにもないんだ!」
 怒鳴り声に動じずアイはじっとマモルの目を見つめていた。
「なぜあなたはアンドロイドが嫌いなのですか?」
「機械に言ったって、どうせ分からないだろうさ」
「回答の入力をお願いします」
「お前らには感情がないからさ! こんな風に、ずけずけと人の心に踏み込んで来るくせに! どうしてこんな奴らを、母さんは作っていたんだ……」
 マモルは、まだ平和で豊かだったころの世界を思い出していた。大好きな母と暮らしていた、だが、母はよくアンドロイドの研究のためと言っては、家に帰ってこないことが多かった。マモルにはそれが許せなかったのだ。感情があり生きているマモルよりも、母はアンドロイドの方が大事なのではないかと、思ってしまうのだ。
「あなたのお母さん、カタコさんは私を作ってくださいました」
「それが何だって言うんだよ! そんなこと言われたって、余計お前を嫌いになるだけだ!」
「カタコさんはよくあなたのことを私に話してくださいました。とても大事な存在だと。生きていることが分かったとき、とても嬉しかったと」
 アイはマモルの顔を撫でるように、手を近づけた。それは暖かく、とても機械のものだとは思えないほど柔らかかった。
「……これ、この手」
 どこか懐かしい感触であった。まるでマモルをいつも撫でてくれていたような、記憶を呼び起こす感触。
「母さんの、手なのか」
 材料や機材が乏しい状況で、精密な動きができるアンドロイドを作ることは難しい。だが、マモルのは母であるカタコは画期的な方法でそれを実現した。
 生体パーツの流用である。死んでいった人間の部位ならばいくらでもある状況なのだ。
「母さんの手を、どうしてこいつが!」
 マモルはムラモトに怒鳴り付けた。
「仕方がなかったんだよ。完成まであと一歩、しかし肝心の手の部位が足りないというときに、カタコさんは亡くなったんだ。それに何よりアイに手を移植させるのは、カタコさんの遺言でもあったんだ」
 よりにもよって大嫌いなアンドロイドに……。怒りとも悲しみともつかない、靄のかかったような、けれども重たい感情がマモルに圧し掛かった。
 
 マモルはそれなりに集落に溶け込み、暮らしていた。農作物の栽培や清潔な水の確保の手伝いなども積極的に行っていた。
 だがアイとだけは打ち解けないままであった。
 この日もマモルは集落の外に湧き出る清潔な水を汲みに出ていた。
 慣れてきたので一人でも大丈夫だろう、と思っていたのが間違いであった。無防備なマモルに、狂暴な害獣が忍び寄っていた。
「あ、くそ!」
 気付いた時にはもう遅かった。害獣は鋭い牙をマモルに向け飛びかかってきた。
 やられた、そう思いマモルは死を覚悟しながら目を瞑った。
 だが、いくら待っても痛みは襲ってこなかった。おかしいと思い恐る恐る目を開けると、そこにはアイが立っていた。
「大丈夫ですか」
 まだ人間の生体部位に移植されていない、機械製の頑丈な脚でアイは害獣を蹴り飛ばしていた。
「どうして、お前がここにいるんだ」
「分かりません」
 アンドロイドらしくない答えにマモルは首を傾げた。
「私にも分からないのです。ただ、あなたのそばにいたいと、何となく思ったのです」
「……機械が、何となく、か」
 地面に尻もちをついていたマモルに、アイは手を差し出した。少し迷ったが、マモルはその手を掴んだ。相変わらず、柔らかく暖かい手であった。
「ぼくも何となくだけど、母さんがお前に手をあげた理由、分かった気がするよ」
 母は、死んでもアイに手を残すことでマモルを守ってあげられる、そう思ったのではないだろうか。アイの力強くも優しい手に、マモルはそんなことを思った。
 
 長い時間が流れた。環境はだいぶ浄化されたとはいえ、まだ人間が快適に暮らせるほどではなかった。
 マモルがいた集落は、何度か人間同士のトラブルが起きたが、お互いを思いやることでそれを乗り越え、今では一つの村とも言えるくらい繁栄していた。
 しかしその陰で多くの命が死んでいった。だがそのおかげで多くの命が誕生していた。
「あなたを守りたい」
 今この瞬間も、一つの命が失われようとしていた。
「もう、お前はぼくを守らなくてもいいんだよ」
 マモルは立派な大人に成長していた。
「あなたを守ることが、私の使命です」
「もう充分その使命を果たしたよ」
 アイは眠そうな目をマモルにずっと向けている。マモルも、アイに優しい目を向け続けていた。
「アイ、ありがとう」
 あれからアイは、多くの人から生体部品を受け継いできた。しかし受け継いだのは決して、生体部品だけではない。その人の思いや使命、そして愛をも受け継いでいた。
 そして、アイは機械でありながら死を手に入れることができたのだ。
「こちらこそ、ありがとう」
 アイは静かに目を閉じた。