030.見えない絆
ミユコは目を覚ます。ベッドから起きあがって周りを見ても、誰もいなかった。
ふと、恋人のユウトがいないことに不審がるも、すぐに昨日のことを思い出す。
「あ、そっか。ミュートにしたんだっけ」
少しさみしい気分になったが、それでもまだ昨日の怒りが濃く残っていた。
「なにも、あんなに怒らなくてもいいじゃない」
昨日ミユコは仕事が遅くまでかかり、深夜に帰宅したのだった。そのとき、なぜだか強烈な吐き気に襲われ、洗面台で嘔吐した。
それを見たユウトは、またか、といった呆れた表情でこう言った。
「おい、また酒を飲み過ぎたのか。いい加減懲りたらどうだ」
「お酒なんか飲んでないわよ。ちょっと、具合が悪いの」
「本当か? ならさっさと寝ることだな」
「なによその態度! もう少し心配してくれてもいいじゃない!」
ミユコは本当に具合が悪かったのだ。それなのに、まるでミユコ自身が悪いとでも言うようなユウトの態度に、ミユコは腹を立てた。
深夜に始まったケンカは治まることはなく、むしろ時間が経てば経つほど激しくなっていった。
「もうお前の顔なんか見たくない! ミュートにしてやる!」
「それはこっちのセリフよ!」
こうしてミユコとユウトはお互いをミュートし合ってしまったのだ。
今もこのマンションの一室に二人は住んでいる。だが、ミュートという登録した人物を認識できなくなる装置を作動させ、お互い姿を見ることはできなくなっているのだ。
「久々に、あいつのやかましい声で起こされずに済んだわ」
ミユコは悠々と伸びをし、コーヒーを淹れ、パンを焼き、鼻歌を歌った。いつもならユウトが好きな日本茶を飲み、白米と味噌汁を食べ、ニュース番組を見ていた。
「やっぱり、朝は白いご飯よりパンだわね」
ユウトは何を食べただろうか、と心に引っかかったものの、すぐにミユコは考えるのをやめた。
「あいつがホットラインで謝ってこない限り、連絡なんかしないんだから」
ミユコは、ミュート機能が働いていても認識することができる緊急ホットラインをスマートホンで開いてみるも、そこにはメッセージなどなかった。おそらくユウトのほうも同じ考えなのだろう。
「ふん、勝手にしろっての」
ミユコは手早く朝食を食べ終え、仕事へと向かった。
それからというもの、ミユコとユウトはお互いをミュートし合ったまま生活を続けた。
数か月過ぎてもユウトからメッセージは来なかった。ミユコもユウトへメッセージを送ろうとは思わなかった。二人とも気の強い性格だったからだ。
メッセージが来ないことは特に気にしていなかったが、ミユコに奇妙なことが起こり始めた。
「さあ、どうぞこの席にお座りくださいな」
電車に乗っていたミユコに、見知らぬ男性が笑いかけながら席を譲ってくる。
「おやおや、重そうな荷物ですね、持ちましょう」
買物帰りのミユコに、警察官が笑いかけながら荷物を持ってくれる。
「あら、ほらこれをお食べなさい」
道を歩くミユコに、すれ違った老婦人が果物をくれる。
なぜだか分からないが、皆がミユコに優しくしてくれるのだ。
これは一体どういうことだろう、と不思議に思いながらもミユコは悪い気はしなかった。
「やあ、ミユコくんだったね。きみ、しばらく会社に来なくてもいいよ」
会社の上司がやってきてミユコにそう告げた。
「来なくてもいいって、クビですか!? わたし、何かミスしましたか!?」
当然、ミユコも食って掛かった。
「クビだなんてとんでもない! 我が社は優良企業だからね。もちろん、きみが休んでいる間は手当も出るし、仕事復帰も保障しているよ」
よく分からなかったが、お金がもらえて仕事が休めるのならこれほど嬉しいことはない。ミユコはさっそく家に帰って、くつろぐことにした。
一か月ほどのんびり家で過ごしていたころ、突然苦痛がミユコを襲い始める。
それは何とも言えない、今まで味わったことのない苦痛だった。
助けを呼ぼうにも、動くことができなかった。ミユコは苦痛に顔を歪ませながら耐えた。
やがて、ふわっと苦痛が消えた。苦痛そのものが嘘であったかのように。
ミユコは苦痛の疲れから、そのまま眠りについた。
目が覚めて、もしかしたらあれは夢だったのではないかと思い始めた。あんなにも非現実的な苦痛、あるはずがないと。
ミユコは苦痛のことを忘れ、またのんびりと家で過ごし始めた。
それからまた数か月が経った。
「突然お訪ねして申し訳ありません」
二人組の男がやってきた。
「我々はこういうものです」
一人の男が手帳を差し出した。警察、の二文字がミユコの目に飛び込んでくる。
「警察が、一体何の用ですか?」
「いえ、最近このあたりで異臭がすると近隣住民から苦情がありまして。少し、お部屋を見せていただけないでしょうか」
「ええ、構いませんけども……」
ミユコは警察官二人を部屋へ招き入れた。
「うわっ、酷い臭いだ!」
「おい、やはりあったぞ!」
警察官たちは大騒ぎをしながら、ミユコに問い詰める。
「なんですかこれは!」
警察官が指差す方向を見るも、ミユコには何も見えなかった。そもそも異臭も感じない。
「何を言っているんですか? 何もないじゃありませんか」
「……もしかして、あなたたちミュート機能を使っているんじゃ」
「ええ、使っていますよ」
仕方なくミユコはミュート機能を解除した。すると細身で背の高い、ハンサムな男が目の前に現れる。ミユコにとって久々に見るユウトの姿だった。ユウトのほうも同じだろう。
「うっ、何これ……」
「おえっ」
ミユコとユウトは、お互いの姿を認識した途端に口元を押さえた。強烈な臭いが部屋中に満ちていたのだ。
「さあ、これが異臭の原因ですよ」
警察官が指差す方向を、ミユコとユウトは見た。
ハエと蛆虫に侵され、形はだいぶ崩れているが、それは間違いなく、赤ん坊だった。
ミュート機能、それは指定した人物を遺伝子レベルで認識を防ぐ機能である。ゆえに産まれたばかりの赤ん坊は、遺伝子レベルではミユコであり、またユウトでもあるのだ。