022.名探偵は食べる

 人は禁忌を犯すとき、何を考えるだろうか。

 絶望? 希望? 怒り? 悲しみ? 喜び?
 どれでもなかった。少なくとも私には、何もなかったのだ。人を一人殺したとしても、心は全く揺さぶられなかった。ただ終わったのだ。目の前で、私の人生をめちゃくちゃにした男の命が。
「こんな、ものなのか?」
 私はガラス製の大きな灰皿を片手にぶらさげながら、呟いた。ちとん、ちとんと、灰皿に付いた血が滴り落ちる音が、私の心のように無感情に鳴っている。
 私の足元には、初老の男、金貸しのタニマチが倒れている。私の両親に不法な利息で無理矢理金を貸し、最終的に自殺まで追い込んだ男だ。
 どうやってタニマチを殺したのか、そんなことは簡単だった。タニマチは年数回決まった日時に決まった宿に泊まることを知った私は、旅行客を装い同じ宿に泊まり、そしてタニマチの部屋に押し入り、手近にあった灰皿でタニマチを殴った、それだけだ。
 親父……お袋……敵は取ったよ。そうだ、こいつは死んで当然の男なのだ。
 しかし、犯罪は犯罪だ。たとえどんな理由があったとしても、罪を犯したのなら罰を受けなければならない。
 私は逮捕され、裁判にかけられ、そして刑務所へと送られるだろう。自首をすればいくらか罪は軽くなるかもしれないが……とにかく疲れた、最後にゆっくり休みたい。
 私は自分の部屋へと戻ることにした。一度寝て、それから自首しよう。宿の柔らかく清潔なベッドに身を預け、目を閉じる。
 
 何の夢も見なかった。私の意識はいつの間にか闇の中に落ちていて、そしていつの間にか闇の中から浮かび上がった。
 ゆっくりと目を開ける。ああ、そうだ、私はタニマチを殺したんだった。鈍い衝撃の感覚がまだ手に残っている。
 私は体を起こしながら、部屋の外がやけに騒々しいことに気が付いた。もしかしたらタニマチが殺されたことに、宿側が気が付いたのかもしれない。
 ならばさっさと自首しなければ。宿や泊まっている客に迷惑をかけたくはない。これは私とタニマチだけの問題なのだから。
 慌てて部屋の外へと飛び出す。
「皆さん落ち着いてください、大丈夫ですから。殺人犯は、この私、名探偵金田川が捕まえてみせます」
 部屋を出てすぐの宿の談話室に人々は集まっていた。その中で悠々と、演説のように語る男がいた。長身痩躯、スーツ姿の小奇麗な青年。私は彼を見たことがあった。直接会ったことがあるということではない。見たことがあるのは、テレビや雑誌、新聞などに彼がよく取り上げられているからだ。
 名探偵金田川。今どき珍しい存在だ。警察では解決が難しい事件に介入することが許された唯一の存在、それが金田川だ。
「あの、すみません……これは」
 私は金田川に近寄り話しかける。こんなもの、名探偵が推理するまでもない。警察が捜査をすればすぐに私が殺したことが分かるだろうし、何より私は逃れようなどと思ってはいない。自首して罪を償うつもりなのだ。
「あなたも宿泊客の一人ですね? ご安心ください、この密室殺人事件、私が必ず解決してみせます」
 私の言葉を遮り、金田川は自信満々に胸を張って言った。
 いや、ちょっと待て……。
「密室、殺人?」
「その通り、密室で被害者のタニマチさんは殺害されています。タニマチさんは、早朝にチェックアウトすると事前に宿の従業員に話していたのです。しかし今日、中々タニマチさんが起きてこないことを不審に思った従業員が部屋を訪ねたところ、鍵がかかっていた。何度も呼び出しても返答がない。尋常でない雰囲気を感じ取った従業員がマスターキーを使い部屋に入ったところ……そこには倒れているタニマチさんがおり、そしてその側には血に濡れた灰皿が落ちていた……」
「そんな、馬鹿な……」
 私は部屋に鍵などかけていない。タニマチを殺し、そのまま自分の部屋に戻ったのだ。
「まさか身近でこのような凄惨な事件が起きるなんて、信じられないのも無理ありませんよ」
 金田川は神妙な顔で私にそう言った。
「しかし犯人は、間違いなくこの中にいます。私がその犯人を必ず捕まえます」
 一体どうなっているのか、私にはさっぱりだった。だが先ほどまで諦めていた自由がもしかしたら手が届くところにあるのではないか、この不自然な状況に、私はそんなことを思っていた。
 
 金田川は殺人現場を捜査し終えたのか、談話室へと戻ってきた。金田川の側には、トレンチコートを羽織った体つきの良い男が付いていた。
「どうも、この事件の担当となりました。刑事の丸形と申します」
 丸形はその大きな体を曲げ、頭を下げた。
「挨拶はそれくらいにして、さっそく推理をしましょうか」
 金田川はそう言うと、透明の袋に入った鍵の束を懐から取り出した。
「これはこの宿のマスターキーです。先ほど密室殺人事件と私は言いましたが、もしこのマスターキーを自由に持ち出せるのであれば、密室は成立しませんよね?」
 金田川の言う通りだ。それなら部屋の鍵はないに等しい。
「待ってください、マスターキーは厳重に管理されています。誰にでも持ち出すことなどできません!」
 そう反論したのはこの宿の従業員だった。
「そう、このマスターキーは誰にでも持ち出せるものではありません。ただ誰にでも持ち出すことができないだけであって、持ち出せる人間はいるということです」
 金田川はそう言うと、反論してきた従業員のほうを見た。
「そうですよね、従業員の山口さん」
「そ、そんな……まさか私を疑っているんじゃ……」
 よし……よし! やはり、金田川は勘違いをしている。この密室はおそらく、何らかの偶然が重なってできた状況なのだ。となると、まず私は疑われない。金田川の高い推理力は裏目に出て、きっと他の誰かを殺人犯に仕立て上げてくれるだろう。私の自由の可能性は高くなっている。
 私は心の中で金田川を応援した。このまま、宿の従業員を犯人にしてくれ。従業員には気の毒だが。
「この状況で一番疑わしいのは、マスターキーを自由に扱うことのできる山口さんあなただ」
「動機がないだろう! タニマチさんはこの宿の常連なんだ! どうして私がタニマチさんを殺すんだ!」
「そう、タニマチさんはこの宿の常連です。常連だからこそ……あなたとタニマチさんは顔見知りだった。顔見知りなら、トラブルの一つや二つ抱えていてもおかしくはありません」
 どうやら、金田川は従業員の山口を本気で疑っているようだ。私は感付かれないよう、ほっと息を吐く。
「と、普通の人ならそう考えるかもしれませんね。ですがこの密室、実はマスターキーを使わなくても、誰でも作ることができるのです」
「ええ!?」
 思わず私は声をあげて驚いてしまう。
「おや、どうしました?」
「いえ、何も……」
 くそ、金田川め……妙に引き伸ばすような真似をしてくれる。いや、名探偵というのはそういう習性があるのかもしれない。フィクションでの名探偵でも、このように勿体ぶった推理を披露するじゃないか。大丈夫、まだ私が疑われていると決まったわけではないのだ。
「山口さん、もう一度、タニマチさんの死体を発見した状況を説明してもらえますか?」
「はい……。早朝にチェックアウトすると言っておられたタニマチさんが起きて来られないので、私は部屋まで起こしに行きました。何度扉の前で呼びかけても返事がなく、部屋に鍵がかかったままでしたので、マスターキーを取りに行きました」
「そして鍵を開けた、と……ではそこで何か不自然なことはありませんでしたか?」
「あっ! ありました! マスターキーで一度鍵を開けたんですが、扉が開かなかったんです。なのでもう一度マスターキーを入れて鍵を回しました。すると今度は難なく扉が開いたので、部屋の中に入ったんです」
「ありがとうございます。一度鍵を開けたのに扉は開かなかった……これが密室の秘密なのです」
 金田川は懐から一枚の写真を取り出し、見せた。
「この写真は、事件発覚から間もなく撮られたものです。写っているのはタニマチさんの扉の、蝶番がある部分」
 部屋の扉と、床に敷かれてある絨毯が写っている。どこにも不審な点は見当たらない。
「分かりませんか、この、扉のすぐ側の絨毯、濡れているような染みがあるんです」
 金田川が写真の一部分を指差す。確かに染みがあった。
「染みの形、なんだか三角形に見えませんか」
「確かに、三角形の染みだな」
 刑事の丸形が写真を見て頷く。
「これは氷が置かれた跡なんですよ。この扉の蝶番の部分に、挟み込むように三角形の氷を置いておく。するとどうなるでしょう」
「部屋の扉は外に引くように開かれるから……氷が楔となって、扉は開かない!」
 今度は従業員の山口が言った。
「そう、これが部屋を密室にしていた鍵なのです。これならマスターキーがなくても鍵はかけられます。山口さんが、マスターキーで鍵を開けたにも関わらず最初扉が開かなかったのも、扉自体には鍵はかかっていなかったからなのです」
「なるほど、山口さんがマスターキーを取りにフロントへ戻っている隙に氷を取り除いておけば、まるで扉に鍵がかかっていたように見せかけることができるってわけか」
 刑事の丸形は身を乗り出すようにして金田川の話を聞いている。
「ではこの三角形の氷を作ることができる人物は誰か……それは三角形の氷を作る型を持っている人物……先ほど捜査のついでに、宿泊客の皆さんの部屋に入れさせてもらいました」
 金田川は懐から、三角形の木の枠を取り出した。
「すると……十重さん、あなたの部屋からこれが見つかりました」
 唐突に、私の名前が金田川の口から飛び出てくる。
「なっ……そんなもの、知らない!」
「今さら言い逃れはできませんよ。それにあなたとタニマチさんの関係は、警察の方々にじっくり調べてもらえば分かることでしょうからね」
 私はがっくりと、全身から力が抜けていくのが分かった。一度見せられた希望、それが幻だったとは……。
 刑事の丸形が、私の手に手錠をかけた。
 
 名探偵というのは食っていけない職業だ。なぜなら、警察では解決できない難事件なんて、滅多に起きないからだ。
 じゃあどうして私がこのように食っていける名探偵としていることができるのか。答えは簡単だ。難事件がなければ、難事件を作ればいい。
 私が生まれ持った常人離れした洞察力と推理力を駆使し、事前に、殺人事件が起きることを嗅ぎつける。そして起こった殺人事件を、難事件に仕立て上げる。一番簡単なのは密室事件。私が密室にして、それを解き明かす。
「どいつもこいつも、捕まったショックで、全部自分がやったことだと認めてしまうから、笑えちまうよな」
 一度、犯人に『もしかしたら捕まらないのでは?』という希望を見せること。それがこの仕事を続けるコツなのだ。
 俺は食っていける名探偵、金田川だ。