002.個人情報保護法
俺は目を覚ます。
いつもと同じ、ボロボロの安アパートの、物はほとんど置かれていない一室の、かび臭い布団の上で。
カーテンすらないから、窓から差し込む鋭い朝日が容赦なく目を痛めつけてきて、思わず手で顔を覆う。これも毎日同じようにやっている。
なぜカーテンすらないのか。理由は明白だ。金がないからだ。それはもうとにかく金がない。アホみたいに金がない。
親父が残した借金、親友だと思っていた奴の保証人になったらとんずらされさらに借金、そして街中を歩いていたら占い師に話しかけられていつの間にか買ってしまった高価な壺の代金の借金、借金借金借金……。どうして俺はこんなダメダメな人生なんだ!
幸いに俺は無駄に丈夫で頑丈な体を持っているから、肉体労働の短期バイトをいくつも掛け持ちしては、借金を返済しようとしている。
だが莫大な借金にくっ付いているこれまた莫大なクソったれな利子とやらで一向に元金が減らない。この調子だと、全ての借金を返し終えるころには俺は七十代になってしまう。
畜生、俺はこのまま爺さんになるまで借金地獄なのか。
と、これもまた毎日同じように思っている。同じことの繰り返しだ。
俺の人生を悔やんでいる場合じゃない、とりあえず今はすぐに準備してバイトに向かわないといけない。
俺は黄ばんだ枕のそばに置いておいたお面を手に取って、顔に着ける。木製の、表面にうっすらと唐草模様が彫られたものだ。これが俺のアイデンティティで、俺を俺と証明してくれる。絶望に弛んだ顔面を覆い隠してくれる。
ずっとずっと昔の人たちは、今の俺たちのようにお面で顔を隠すことはしていなかったそうだ。個人情報の扱いを昔の人たちはまだまだ軽視していたのだとか。
今では考えられないことだ。顔面という個人の情報の塊を、常に他人の前に晒し続けていたなんて。
昔の差別用語に、顔面個人情報の形状に優劣を付ける「イケメン」や「ブサイク」といった単語があった。だが今、俺たちの顔面はお面によって守られている。
昔の人たちにとっては考えられないだろう、今の親交や恋愛は中身が全てだ。
「バイトお疲れ様、かっちゃん」
薄いピンク色のセラミックス製お面を着けた神楽が、向こうから手を振りながらやってくる。
俺は座っていた公園のベンチから立ち上がって、手を振り返す。
「よう、そっちこそお疲れ」
髪を肩のところで切り揃えた、小柄な神楽。俺は神楽の顔面を見たことはないし、同じく神楽は俺の顔面を見たことはない。お互い、見ようとしたこともない。恋愛は中身が全て。
「なあ神楽、俺の借金を返すため、お前にも無理させちゃってるけど、辛くないのか?」
神楽はお面の奥で小さな笑い声をこぼした。
「ぜっんぜん。毎日かっちゃんと一緒に頑張って、帰り道も一緒。辛くなんかないよ。楽しいよ」
「お、おう」
ありがとう、と言いながら俺たちはお面越しにキスをする。かすかに伝わってくる神楽の顔面の体温。暖かい。次第に俺の体が熱を持っていくのが分かった。
俺にいくら素晴らしい恋人がいるからといって、この苦しい生活が楽になるわけじゃない。
隣で眠る神楽を眺めながら、俺は煙草に火を点け、お面に空いた穴に差し込む。
金だ。なんとしても、どうにかして、金を作らないといけない。
金さえあれば、他のことなんてどうにでもなるんだ。
ガラスに映った俺の姿がふいに目に入る。いつもと同じ顔、お面が映っている。今の俺はきっと、怒りや憎しみに染まった醜い表情をしているだろう。それがお面で隠されている。今の俺の表情が神楽に見られないことが救いだ。
金さえあればお面の奥でこんな表情をしなくても済むのに。
「あなたの人生を変えることができますよ」
そんなことを言われたら、誰もがみんな怪しいと思うだろう。俺も思っていた。
「今の人生に満足していないんでしょう。知ってるんですよカツヤさん」
そいつは今時珍しい、特徴の少ないお面を着けていた。真っ白く表面には何の加工もされていないプラスチック製。特徴の少ないお面、つまり自分を自分と証明するお面に特徴がないのだ。
アイデンティティを放棄していると言ってもいい。そういったお面は、今のお面社会に馴染めない老人たちが使うものだが、最近ではそれも見かけなくなっていた。
「変えることができるのなら変えてくれよクソ野郎。いいか、こっちはイライラしているんだ。その薄気味悪いのっぺらぼうみたいなお面を殴られたくなけりゃ失せろ」
「変えることができるのなら、そう仰いましたね。了承と受け取ってよろしいですね」
物怖じするどころか、ひょうひょうと言葉を返してくる。まるで薄笑いをお面の奥で浮かべているかのように、気味が悪い。そいつは深夜バイト帰りの俺を、細い路地のほうへと手招きして連れていった。
そしてやってきたのは、ほとんど何も見えないくらいの暗闇の中だった。分かるのはここが建物の中ということだけだ。ただその建物がどういうもので何のためのものか、さっぱり見当も付かない。
「さあここに横になってください」
俺は突然手を引っ張られたかと思うと、柔らかいものの上に押し倒される。ソファーかベッドだろうか。中々心地が良い柔らかさだ。
「それでは目を閉じて、リラックスしてください」
「おいおい、もしかして催眠術ってやつか?」
「内緒です。いいから言う通りにしてください。人生を変えたくないんですか?」
もしかしたらまた騙されたのかもしれない。あの、親友と思っていた奴や占い師たちにやられたように。けれども、今更失うものなんて何もない。そう思うと、俺は不思議と気分が安らいだ。ほのかに甘い香りがする。あの男がお香でも焚いたんだろうか。
途端に眠気が襲ってくる。ここのところずっと働き詰めだったから、疲れが出たのかもしれない。ちょうどいい、眠らせてもらおう。
俺はゆっくりと目を閉じた。
違和感があった。何とも言えない、表現できない違和感。何かが違う気がする。けれども何が違うのかが分からない。頭がぼんやりする。
俺はゆっくりと体を起こす。
「終わりましたよ」
例の薄気味悪い男が耳元で囁いた。
「終わった……」
「あなたの人生は変わりました。どうぞ、お帰りください」
「俺の人生……?」
頭に靄がかかっているようだ。男の言葉をうまく飲み込めない。
「はい、あなたの人生です」
突然明かりがつき、眩しさに思わず目をつぶる。
「御覧なさい」
ゆっくりと目を開き、目の前のものを見る。
そこにあるのは鏡。そしてそれに映るのは俺の顔、いや私のお面だ。
「本当に終わったのか? 私の人生は変わったのか?」
「ええ、変わりましたよ」
そうか、変わったのだ。私はベッドから降り、立ち上がる。薄いがしっかりとした生地のジャケットにズボン。そして青みがかった軽い金属製のお面。
「うーむ、なんだか釈然としないが、なんだかゆっくり休めたようだよ。リラクゼーションのようなものだったのか? まあいい,
とにかく料金だ。いくらだね?」
私はジャケットのポケットの中を探る。紙幣の束が詰まっていた。
「いいえ、料金は頂きませんよ」
そう言うと男は出口のほうを指差して、私の帰宅を促した。金を取らないなんてどこまでも不思議な奴だとは思ったが、私はふらふらと帰路に着いていた。
何とも言えない爽やかさがあった。とにかく体が軽い。どこまでも走れそうだ。いつまでも起きていられそうだ。目を覚ました私は最高の気分だった。
「変わったのだね、私の人生が」
いつの間にか明かりが点けられている。私は私のすぐそばに立っている男に声をかけた。
「変わりましたよ、ほら」
男が手鏡を手渡してきたのでそれを受け取り、私はそれを覗き込む。
そこに映っていたのは紛れもなく俺の顔だった。木製の、表面に薄く唐草模様が彫られたお面。
「ありがとうよ。本当にあんたに会えてよかった。で、料金は?」
「やだなぁ、もうすでに頂きましたよ」
ほら、と男は懐から札束を取り出した。そんな大金払った覚えがないが、まあいいだろう。気にしないことにする。頭がまだぼんやりとしていて、あまり物事を考えられない。
「それではさようなら、カツヤさん」
男はそう言って、出口を指差した。俺はふらつくも軽い足でそのまま帰路に着く。帰ろう、神楽が待っているアパートへ。
お面を信用しすぎなのです。お面に依存しすぎなのです。この社会は狂っています。
お面が自分を証明するもの? アイデンティティ? 笑えちゃいます。
お面は簡単に取り外せるのですから。自分が簡単に取り外せちゃうなんて、ぞっとします。
だから私はお面に執着なんてしません。お面はお面、テキトーでいいのです。
お面に自分を任せっきりだから、自分を交換されちゃうんです。
自分を交換なんてできるのか? できますよ。だってあなたたちが自分を証明するものが、交換可能なんですから。
そうして交換させられるのは、けっしてお面だけの自分じゃないですよ。中身も交換させられちゃうんです。
怖いですね。でも本当の自分をお面で隠し続けてきた結果なのです。
分かり辛いですかね。簡単に一言で言いましょうか。
そう、人の意識は体にも影響を与える。
私はこの先もずっと、お面に頼りたいとは思いません。
私はあの男の元から病院へ帰っていった。久しぶりの外出だというのに、帰ってきたらすぐに相も変わらず検査の繰り返しだ。どうせ助からないというのに。
助からない、必ず死ぬ病。どうして私がこんなことにならなくてはならないのだ。
あれほど仕事で私に笑顔を振りまいていた女どもなど、この病院にやってきた一度もない。
金ならある、たくさん、いくらでもある。金などいらないのだ! 役に立たないこの紙屑が! 貧乏でもいい! 借金地獄でもいい! とにかく健康な体が欲しい! 私を思ってくれる人が欲しい! こんなのが私の人生なのか!
ああ、病院の窓から、外を二人で連れ添って歩く若い男女が見える。きっとあの男は健康なのだろう。毎日元気に働いて、あの女性と笑いあって、幸せに暮らしているのだろう。うらやましい。