006.バージョンアップ

 エデンの園にてアダムとイブが食したとされる禁断の果実、それは林檎であったと言われているが、実は林檎ではなくバナナであったという説があるのは、あまり知られていない。

 とにかく女はバナナを食した。いや、バナナによく似た果実を食した。黄色く、所々に黒ずんだ茶褐色の斑点が浮いた皮をむき、露わとなった乳白色のそれを、女は咥え、歯で齧り取りすり潰した。滑らかな歯触りとまったりとした甘さは、女が今まで食べたバナナの中では一番であり、その美味に夢中になって残りのバナナを黙々と食べた。
 女が丁度バナナを食べ終えたとき、部屋に男がやってくる。
「ああ!そこにあったバナナ、きみは食べてしまったのか!」
 男は慌てた様子で女に駆け寄り、中身を失ったバナナの皮を見てそう叫んだ。
「ええ、とても美味しいバナナでしたわ。もっとないの?」
「あるわけがない!あれはな、かつてエデンの園にあったという禁断の果実を、再生復元したものだったんだ!それをきみは食べてしまったのだ!チクショウ!」男は科学者だった。
「なんてこと、ごめんなさい……お願いだからどうか許して……」
 女は自分のしでかしたことの重みを知り、涙を浮かべながら男に許しを乞うた。するとどうだろう、男の焦燥と怒りが入り混じった表情と雰囲気が、女の言葉を聞いた途端、ストンと落ちたかのように、一気に冷めていったのだ。
「許そう、こちらこそ急に怒鳴りつけて悪かったね」
 やんわりと微笑みを浮かべ、男は女に笑いかけた。しかし男の虚ろな眼には意志が感じられない、不自然に思った女は男に問うた。
「ねえ、あなたはさっき禁断の果実を再生復元したと言っていたけれども、その禁断の果実って何なの?」
 男は自分の研究については、身内にも一切話さないほどの秘密主義であった。だが女の言葉を聞いた男は、依然虚ろな眼をフラフラと泳がせながら、ペラペラと何の迷いもなく話し始めた。
「教えよう、旧約聖書では禁断の果実は知恵の実であるとされている。では知恵の実が指す知恵とは何であるか、という疑問から私の研究は始まった。長年思考しながら、私は一つの答えに辿り着いた。知恵、それは言葉であると。言葉は思考するための道具、知恵を作り出す道具だ。知恵の実を食べたアダムとイブは、言葉を手に入れたのだ。我々がこうして言葉を用いて会話ができるのも、アダムとイブが知恵の実を食べ言葉を手に入れた結果なのだ」
 女は混乱しつつも、なんとか男の話す研究内容を理解し、また質問をした。
「じゃあ既に言葉を手にれている私が知恵の実を食べても、何の変化もないってことかしら?」
 男は答える。
「教えよう、変化はある。言葉を手に入れた人間は、次第に団結し、増え、そして神にも近付いていった。だがそれを恐れた神は一度人間に罰を与え、言葉を分解してしまった。それがバベルの塔の話だよ。つまり我々の言語が日本語や中国語、英語やロシア語に分かれているのはそれが原因なのだ。それまでは一つの言語が使われていた、誰もが理解できる究極の言語、究極の言葉が。その究極が知恵の実に詰まっており、それを今、きみが食べた。まあ分かりやすく言うとだね、きみの用いる言葉はバージョン・アップされた」
「バージョン・アップ?」
「教えよう、バージョン・アップされたとはつまり、今、きみの言葉は全ての人間に理解される。理解されるだけではない、きみの言葉は極めて強力なのだ。きみの言葉には誰も逆らえない、神にのみ使うことが許されている言葉を、きみは使っているのだよ」
 女は恐怖した。男が今、正気でないことに、男の正気を奪ったのは他でもない自分だということに。そして、もう自分は人と普通に、楽しく会話することができないということに。
「お願い!治して!普通の言葉に、死んでも治しなさいよ!あなたが作ったんでしょう、このバナナを!」
 ボロボロと大粒の涙を零しながら女は男に詰め寄り、責めるように男を怒鳴りつけた。
「死んでも治せ……死んでも治せ……」
 男はしばらく椅子に座って黙り込んだ。どうやら頭の中で色々と考えているようだ。
 ふと、男は立ち上がった。答えが見つかったようで、晴れやかな表情であった。
「死のう」
 男はためらいもなく自分の頭を両手でがっしり掴むと、ぐいっと勢いよく横に曲げた。太い枝が折れるような音がして、男は動かなくなった。死んだのだ。
 男が死んだということは、女の言葉を治すことは不可能だということであった。
 女は絶望した。

 女は絶望したが、それでも死ぬことは嫌だった。眼の前で男が死ぬのを見てしまったせいでもあるかもしれない。とにかく生きていたかった。どんなことをしてでも。
 そう考えると、バージョン・アップされた言葉も、悪くないような気がしてきたのだった。
 女は言葉を使い、様々な人間を支配し操っていった。
 女が「あれが欲しい」と言えばどんなものでも手に入った。
 女が「あれをしたい」と言えばどんなことだってできた。
 女が「あいつが憎い」と言えばいくらだって人間は自ずから命を絶った。
 全てを自分の物にした女は、次第に退屈で退屈で仕方なくなった。そんな女の退屈しのぎは、人間を殺すことだった。眼を覚ませば眼の前にいる人間に「死ね」と言い、欠伸をしながら「死ね」と言い、大きく柔らかいベッドに身体を潜らせながら「死ね」と言った。
 死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
 いつか自分以外の人間はいなくなってしまうのではないか、と一度女は不安になったが、人はいなくなることはなかった。腐るほど、たくさんいるのだった。
 それを知った女は安心するとともにまた退屈になるのだった。

 ある日、また女は退屈しのぎに「死ね」と言い放った。眼の前の人間は「死のう」と言い、死んだ。ところがこの日は、女の全身に何とも言い表せない激痛が走った。この世のあらゆる全ての苦痛が、女を襲っているかのようだった。
 女は死んだ。
 なぜか、何のことはない。女の「死ね」という言葉は、他でもない女自身も聞いていたのだ。
 
 後世に伝わった歴史では、女を「地獄唇」と名付けた。