030.見えない絆

 ミユコは目を覚ます。ベッドから起きあがって周りを見ても、誰もいなかった。

 ふと、恋人のユウトがいないことに不審がるも、すぐに昨日のことを思い出す。
「あ、そっか。ミュートにしたんだっけ」
 少しさみしい気分になったが、それでもまだ昨日の怒りが濃く残っていた。
「なにも、あんなに怒らなくてもいいじゃない」
 昨日ミユコは仕事が遅くまでかかり、深夜に帰宅したのだった。そのとき、なぜだか強烈な吐き気に襲われ、洗面台で嘔吐した。
 それを見たユウトは、またか、といった呆れた表情でこう言った。
「おい、また酒を飲み過ぎたのか。いい加減懲りたらどうだ」
「お酒なんか飲んでないわよ。ちょっと、具合が悪いの」
「本当か? ならさっさと寝ることだな」
「なによその態度! もう少し心配してくれてもいいじゃない!」
 ミユコは本当に具合が悪かったのだ。それなのに、まるでミユコ自身が悪いとでも言うようなユウトの態度に、ミユコは腹を立てた。
 深夜に始まったケンカは治まることはなく、むしろ時間が経てば経つほど激しくなっていった。
「もうお前の顔なんか見たくない! ミュートにしてやる!」
「それはこっちのセリフよ!」
 こうしてミユコとユウトはお互いをミュートし合ってしまったのだ。
 今もこのマンションの一室に二人は住んでいる。だが、ミュートという登録した人物を認識できなくなる装置を作動させ、お互い姿を見ることはできなくなっているのだ。
「久々に、あいつのやかましい声で起こされずに済んだわ」
 ミユコは悠々と伸びをし、コーヒーを淹れ、パンを焼き、鼻歌を歌った。いつもならユウトが好きな日本茶を飲み、白米と味噌汁を食べ、ニュース番組を見ていた。
「やっぱり、朝は白いご飯よりパンだわね」
 ユウトは何を食べただろうか、と心に引っかかったものの、すぐにミユコは考えるのをやめた。
「あいつがホットラインで謝ってこない限り、連絡なんかしないんだから」
 ミユコは、ミュート機能が働いていても認識することができる緊急ホットラインをスマートホンで開いてみるも、そこにはメッセージなどなかった。おそらくユウトのほうも同じ考えなのだろう。
「ふん、勝手にしろっての」
 ミユコは手早く朝食を食べ終え、仕事へと向かった。
 
 それからというもの、ミユコとユウトはお互いをミュートし合ったまま生活を続けた。
 数か月過ぎてもユウトからメッセージは来なかった。ミユコもユウトへメッセージを送ろうとは思わなかった。二人とも気の強い性格だったからだ。
 メッセージが来ないことは特に気にしていなかったが、ミユコに奇妙なことが起こり始めた。
「さあ、どうぞこの席にお座りくださいな」
 電車に乗っていたミユコに、見知らぬ男性が笑いかけながら席を譲ってくる。
「おやおや、重そうな荷物ですね、持ちましょう」
 買物帰りのミユコに、警察官が笑いかけながら荷物を持ってくれる。
「あら、ほらこれをお食べなさい」
 道を歩くミユコに、すれ違った老婦人が果物をくれる。
 なぜだか分からないが、皆がミユコに優しくしてくれるのだ。
 これは一体どういうことだろう、と不思議に思いながらもミユコは悪い気はしなかった。
「やあ、ミユコくんだったね。きみ、しばらく会社に来なくてもいいよ」
 会社の上司がやってきてミユコにそう告げた。
「来なくてもいいって、クビですか!? わたし、何かミスしましたか!?」
 当然、ミユコも食って掛かった。
「クビだなんてとんでもない! 我が社は優良企業だからね。もちろん、きみが休んでいる間は手当も出るし、仕事復帰も保障しているよ」
 よく分からなかったが、お金がもらえて仕事が休めるのならこれほど嬉しいことはない。ミユコはさっそく家に帰って、くつろぐことにした。
 
 一か月ほどのんびり家で過ごしていたころ、突然苦痛がミユコを襲い始める。
 それは何とも言えない、今まで味わったことのない苦痛だった。
 助けを呼ぼうにも、動くことができなかった。ミユコは苦痛に顔を歪ませながら耐えた。
 やがて、ふわっと苦痛が消えた。苦痛そのものが嘘であったかのように。
 ミユコは苦痛の疲れから、そのまま眠りについた。
 目が覚めて、もしかしたらあれは夢だったのではないかと思い始めた。あんなにも非現実的な苦痛、あるはずがないと。
 ミユコは苦痛のことを忘れ、またのんびりと家で過ごし始めた。
 それからまた数か月が経った。
「突然お訪ねして申し訳ありません」
 二人組の男がやってきた。
「我々はこういうものです」
 一人の男が手帳を差し出した。警察、の二文字がミユコの目に飛び込んでくる。
「警察が、一体何の用ですか?」
「いえ、最近このあたりで異臭がすると近隣住民から苦情がありまして。少し、お部屋を見せていただけないでしょうか」
「ええ、構いませんけども……」
 ミユコは警察官二人を部屋へ招き入れた。
「うわっ、酷い臭いだ!」
「おい、やはりあったぞ!」
 警察官たちは大騒ぎをしながら、ミユコに問い詰める。
「なんですかこれは!」
 警察官が指差す方向を見るも、ミユコには何も見えなかった。そもそも異臭も感じない。
「何を言っているんですか? 何もないじゃありませんか」
「……もしかして、あなたたちミュート機能を使っているんじゃ」
「ええ、使っていますよ」
 仕方なくミユコはミュート機能を解除した。すると細身で背の高い、ハンサムな男が目の前に現れる。ミユコにとって久々に見るユウトの姿だった。ユウトのほうも同じだろう。
「うっ、何これ……」
「おえっ」
 ミユコとユウトは、お互いの姿を認識した途端に口元を押さえた。強烈な臭いが部屋中に満ちていたのだ。
「さあ、これが異臭の原因ですよ」
 警察官が指差す方向を、ミユコとユウトは見た。
 ハエと蛆虫に侵され、形はだいぶ崩れているが、それは間違いなく、赤ん坊だった。
 
 ミュート機能、それは指定した人物を遺伝子レベルで認識を防ぐ機能である。ゆえに産まれたばかりの赤ん坊は、遺伝子レベルではミユコであり、またユウトでもあるのだ。

029.母の手のひら

 度重なる環境汚染によって引き起こされた異常気象、生態系の崩壊、内乱や暴動により、人類は多くの命を失った。

 また生き残った者たちも、過酷な環境の中では以前のような快適な暮らしはできなかった。
 少ない食料を分け合い、そして時には奪い合い、未来というわずかな希望を抱きながら暮らしているのであった。
 
 少年マモルは荒廃した土地をひたすら歩いていた。目的地はこの先にある集落。そこには数少ない生き残りの人が暮らしており、また試行錯誤ではあるが農作物の栽培がおこなわれている。
 マモルもつい最近まではそうした集落に住んでいた。しかし住人同士の内乱や、凶悪な害獣の襲撃により壊滅してしまったのだ。
 そこに、なんとか稼働している通信機に連絡が入った。通信機に出力された文章、それは集落への誘いと、そしてマモルの母親がそこで暮らしているという内容であった。
 今まで死んだと思っていたマモルの母親が生きていた、それだけでもマモルにはその集落を目指す理由として充分なものだった。
 辛く長い旅であった。何度も死にそうになりながらも、決して諦めなかったマモルはとうとう集落へと辿り着くことができた。
「不審人物、住人登録されていない、排除しますか?」
 頑丈そうな鉄製の高い門を開けたマモルを出迎えたのは、この世の者とは思えないほどの美しい女性であった。
「……アンドロイドか」
 異様なまでの美しさから、マモルはその女性が人間ではなくアンドロイドであると見抜いた。それほどその女性の肌の白さや整った顔立ちは、今の時代には不釣り合いのものであった。
「待て待てアイ、彼は今日からここの住人になる者だ。怪しい者ではないよ」
 向こうから慌てて一人の男が走ってきた。薄汚れた白衣を着ていて、ひび割れた眼鏡をかけていた。
「すまないねマモルくん。私はムラモト、この集落の住人さ。そして彼女はここのボディーガード兼、家政婦みたいなものさ」
「彼女、ってアンドロイドですよね、これ」
 マモルは酷く冷たい口調で言い切った。
「これって、アイはここでは家族同然なんだよ……」
「アンドロイドはアンドロイドですよ」
 マモルは睨みつけるようにアイに鋭い視線を向けた。
「それよりも、母さんはどこにいるんですか」
「ああ、きみのお母さんのことなんだが……」
 ムラモトは悲しそうな顔をして、呟くように言った。
「つい先日、亡くなったよ。この汚染された空気に肺をやられてね……」
「死んだ、のですか……」
 マモルも呟くようにして言葉を返した。
「もっと早くマモルくんに連絡が取れれば良かったんだが、通信機を修理するのに戸惑ってね……」
「そうですか」
 マモルはボロボロのアパートの一室を割り当てられた。長旅の疲れもあってか、かび臭い布団に潜り込んだ途端、即座に眠りに落ちた。
 
 ふとマモルは目を覚ました。久々に嗅ぐ、食欲を誘う良い匂いがしたからだ。布団から体を起こして周りを見てみると、小さい台所のほうに人影があった。
「おはようございます。昼食の準備はできています」
 綺麗で心地良い声色。しかし感情を感じられない、抑揚のない声。
「お前はどうしてここにいるんだ」
 マモルは顔を顰めた。台所にて食事を作っていたのは、アンドロイドのアイであった。
「ムラモトさんより、あなたの食事を作るよう言われましたので」
「勝手に入ってくるな!」
 マモルは怒鳴りながらアイの肩を掴み、引っ張った。
「以前お会いしたときから、あなたは私に憎悪に似た感情を抱いているように思われます。なぜですか? 回答の入力を。改善します」
「憎悪に似た感情、だって……ふん、ぼくはお前が、アンドロイドが大嫌いなんだよ! 改善するもなにもないんだ!」
 怒鳴り声に動じずアイはじっとマモルの目を見つめていた。
「なぜあなたはアンドロイドが嫌いなのですか?」
「機械に言ったって、どうせ分からないだろうさ」
「回答の入力をお願いします」
「お前らには感情がないからさ! こんな風に、ずけずけと人の心に踏み込んで来るくせに! どうしてこんな奴らを、母さんは作っていたんだ……」
 マモルは、まだ平和で豊かだったころの世界を思い出していた。大好きな母と暮らしていた、だが、母はよくアンドロイドの研究のためと言っては、家に帰ってこないことが多かった。マモルにはそれが許せなかったのだ。感情があり生きているマモルよりも、母はアンドロイドの方が大事なのではないかと、思ってしまうのだ。
「あなたのお母さん、カタコさんは私を作ってくださいました」
「それが何だって言うんだよ! そんなこと言われたって、余計お前を嫌いになるだけだ!」
「カタコさんはよくあなたのことを私に話してくださいました。とても大事な存在だと。生きていることが分かったとき、とても嬉しかったと」
 アイはマモルの顔を撫でるように、手を近づけた。それは暖かく、とても機械のものだとは思えないほど柔らかかった。
「……これ、この手」
 どこか懐かしい感触であった。まるでマモルをいつも撫でてくれていたような、記憶を呼び起こす感触。
「母さんの、手なのか」
 材料や機材が乏しい状況で、精密な動きができるアンドロイドを作ることは難しい。だが、マモルのは母であるカタコは画期的な方法でそれを実現した。
 生体パーツの流用である。死んでいった人間の部位ならばいくらでもある状況なのだ。
「母さんの手を、どうしてこいつが!」
 マモルはムラモトに怒鳴り付けた。
「仕方がなかったんだよ。完成まであと一歩、しかし肝心の手の部位が足りないというときに、カタコさんは亡くなったんだ。それに何よりアイに手を移植させるのは、カタコさんの遺言でもあったんだ」
 よりにもよって大嫌いなアンドロイドに……。怒りとも悲しみともつかない、靄のかかったような、けれども重たい感情がマモルに圧し掛かった。
 
 マモルはそれなりに集落に溶け込み、暮らしていた。農作物の栽培や清潔な水の確保の手伝いなども積極的に行っていた。
 だがアイとだけは打ち解けないままであった。
 この日もマモルは集落の外に湧き出る清潔な水を汲みに出ていた。
 慣れてきたので一人でも大丈夫だろう、と思っていたのが間違いであった。無防備なマモルに、狂暴な害獣が忍び寄っていた。
「あ、くそ!」
 気付いた時にはもう遅かった。害獣は鋭い牙をマモルに向け飛びかかってきた。
 やられた、そう思いマモルは死を覚悟しながら目を瞑った。
 だが、いくら待っても痛みは襲ってこなかった。おかしいと思い恐る恐る目を開けると、そこにはアイが立っていた。
「大丈夫ですか」
 まだ人間の生体部位に移植されていない、機械製の頑丈な脚でアイは害獣を蹴り飛ばしていた。
「どうして、お前がここにいるんだ」
「分かりません」
 アンドロイドらしくない答えにマモルは首を傾げた。
「私にも分からないのです。ただ、あなたのそばにいたいと、何となく思ったのです」
「……機械が、何となく、か」
 地面に尻もちをついていたマモルに、アイは手を差し出した。少し迷ったが、マモルはその手を掴んだ。相変わらず、柔らかく暖かい手であった。
「ぼくも何となくだけど、母さんがお前に手をあげた理由、分かった気がするよ」
 母は、死んでもアイに手を残すことでマモルを守ってあげられる、そう思ったのではないだろうか。アイの力強くも優しい手に、マモルはそんなことを思った。
 
 長い時間が流れた。環境はだいぶ浄化されたとはいえ、まだ人間が快適に暮らせるほどではなかった。
 マモルがいた集落は、何度か人間同士のトラブルが起きたが、お互いを思いやることでそれを乗り越え、今では一つの村とも言えるくらい繁栄していた。
 しかしその陰で多くの命が死んでいった。だがそのおかげで多くの命が誕生していた。
「あなたを守りたい」
 今この瞬間も、一つの命が失われようとしていた。
「もう、お前はぼくを守らなくてもいいんだよ」
 マモルは立派な大人に成長していた。
「あなたを守ることが、私の使命です」
「もう充分その使命を果たしたよ」
 アイは眠そうな目をマモルにずっと向けている。マモルも、アイに優しい目を向け続けていた。
「アイ、ありがとう」
 あれからアイは、多くの人から生体部品を受け継いできた。しかし受け継いだのは決して、生体部品だけではない。その人の思いや使命、そして愛をも受け継いでいた。
 そして、アイは機械でありながら死を手に入れることができたのだ。
「こちらこそ、ありがとう」
 アイは静かに目を閉じた。

028.少女は変態

「大人になんかなりたくないわ」

 丸みを帯びながらも、どことなく大人っぽさを漂わせた少女がそう呟いた。
「だって、大人になるって、醜くなることでしょ?」
 はぁ、と憂鬱そうに溜息を吐く少女のそばには、少女と同じくらいの年齢の男の子がいた。
「そうなのかな」
「そうよ。絶対そう。どうして大人って、あんなに醜くて生きていられるのかしら」
 気まずそうに男の子は答える。
「でも、その大人たちがぼくたちを産んでくれたんだよ」
「だから何だって言うのよ。別に産んでくれと頼んだわけじゃないわ。醜くなることが運命づけられているのなら、産まれなかったほうがマシよ」
 食い気味に少女は男の子に近づき、そう言い放った。全てを憎んでいるような、強く黒い語気であった。
「……でも、だからと言って、死にたくなんかないわ」
 一転、今度は辛く悲しそうに少女は呟いた。
「死んじゃったら、それこそ醜いもの」
 少女は生きたくも、死にたくもなかったのだ。その複雑な心は、男の子には理解し辛いものであった。
「ねえ、あなたは、わたしのこと、好き?」
「……うん、好きだよ」
 男の子は少し悩んで、そう答えた。好きという言葉。男の子にとっては恥ずかしいものであったが、正直な気持ちでもあったのだ。男の子は照れを隠すように視線を天に逸らした。
「わたしも好き。あなたが好き」
 少女は力強く言った。
「大好きよ。愛してる」
「ぼくもだよ。愛してる」
 しばらく沈黙が少女と男の子の間で流れた。
「でも、大人になると、愛してるがなくなるの」
 沈黙を破ったのは少女であった。
「なくなる……」
「そう、なくなる。大人になるとね、愛してる、が性欲に変わっちゃうの。子どもを作って産むための道具になっちゃう。それって、とっても醜いことじゃない?」
 男の子は答えなかった。
 少女は、答えない男の子を軽蔑するような鋭い目で睨んだ。
「あなたも、もう醜い大人の仲間入りってわけね」
「ち、ちがうよ……ただ、好きな人と結婚して、子どもも産まれてって、そういう幸せもあるんじゃないかなって。それは醜いことじゃないと思うんだ」
 少女はまた溜息を吐いた。
「それは、大人たちが植えつけた、幻想でしかないの。わたしたちは、今が一番美しいのよ……」
 少女は身体を丸めた。まるで殻に閉じこもるように。
「ぼくは、きみの味方だよ」
「味方なら、一緒に来てくれる?」
 少女は遠くを見ながら言った。
「来てくれるって、どこへ?」
「どこでもないどこかへよ。とにかく、ここにはもういたくないの」
「……うん、ぼくも行くよ」
 少女と男の子は、そのまま何も言葉を交わさずに当てもなく泳ぎ始めた。尾びれをくねらせ、必死に、何かから逃げるようにして。
 だがここは小さな池の中。どこかへ行けるはずもなかった。
 少女の後ろ脚が、生えかかっていた。

027.桜の木の下殺人事件

 桜の木の下には死体が埋まっているという噺がある。その噺の出所は、梶井基二郎の短編小説、「櫻の木の下には」であると言われている。だから桜の木の下には死体なんて埋まってなくて、綺麗な桜には養分を多く含んだ土と水と、丁度良い温度が必要なのだ。
「だがよぅ探偵、実際に桜の下に死体があったんだよ」
 と、小さいシングルソファーに自身の巨体を無理矢理押し込んで座っている、犬井刑事は言う。
「正確には、死体の上に桜があった、でしょうね。写真を見る限り」
 犬井刑事が持ってきた写真を眺めながら、猫崎さんは言う。片手にはマグカップが握られていて、中身は僕がさっき淹れたばかりのホットコーヒーだ。猫崎さんは写真から視線を外さずに、コーヒーを一口、含む。次の瞬間、毒でも飲んだかのように顔を歪めて立ち上がり、「燕太郎くん! これ熱々じゃないか!」と丸々とした大きい瞳で僕を睨んだ。
「なんでぇ探偵、猫舌の癖にホットコーヒーなんぞ飲もうとしやがって。猫舌なら猫舌らしく水でも飲んでやがれ」と、犬井刑事はちんまりとしたコーヒーカップを、岩のようにゴツゴツした手で持って、コーヒーを啜った。
「探偵と言ったら、苦い苦いブラックコーヒーと相場が決まってるんです。フーフーすれば私でも飲めますよ」と猫崎さんは真剣な表情でマグカップの中に息を吹き込み始める。
 さて、全く話が進まない。読者諸君はいい加減痺れを切らしている頃だと思うので、僕がこの物語の登場人物を紹介しよう。この二人は動き出すのがいつも遅いのだ。
 まず、この陽気な天気の中、薄汚れたトレンチコートを羽織った大男、犬井。彼は八口署の刑事。言っちゃ悪いが脳みそまで筋肉でできてるような、バリバリの肉体派。暴力沙汰には滅法強いが、少しでも頭を使う謎が関わってくると、からっきし弱くなってしまうような男なのである。
 そしてこの、犬井刑事とテーブルを挟んだ向かい側に座る、犬井刑事とは対照的な、ふわふわした猫っ毛を自由気ままに跳ねさせた、寝起き三秒後といった細身の男は、猫崎。彼は猫崎探偵事務所の所長であり、また探偵でもある。優秀な頭脳を備えており、いかなる摩訶不思議な謎も必ず解決してしまう、言わば天才なのであるが、いかんせん性格が最悪だ。まず探偵らしい探偵の仕事をしないのである。ペット探し、人探し、浮気調査など、現実味のある仕事は全て蹴り、極稀に舞い込んでくる謎の多い事件のみを仕事として受けるのである。おかげで僕の経済状況は極めて悪い。近所のパン屋さんでパンの耳を貰う毎日だ。
 さて申し遅れた、僕は猫崎探偵の助手を務めている、燕太郎。とある事件で僕は猫崎さんと出会い、何をどう間違ったのかその時猫崎さんの捜査を手伝ってしまい、それ以来、彼は僕に助手としての役割を押し付けてきたのだ。また僕も何をとち狂ったのか、それを受け入れてしまった。そうして、現在に至るわけである。
「やれやれ。で、探偵この事件、どう思うよ」
 やっと、コーヒーにミルクを入れるか入れないかの論争が終わったようで、二人は本題に入るようだ。猫崎さんはすっかり冷え切ったコーヒーを美味しそうに飲みながら、写真をまたじっくり眺め、「燕太郎くん、きみはこの写真どう思うかね」と手裏剣を飛ばすように写真をこちらに投げ渡してきた。
「おいおい探偵、助手に丸投げするつもりか」
 投げられた写真は僕とは遠いところに飛んで落ちて、僕はわざわざそれを拾って写真を見る。
 写真に写っていたのは男の生首だった。いや違う、よくよく見ると生首ではない。それは首から下を地中に埋められて、額に、花がついた桜の枝が刺さっている、男の死体だった。
「私が意見を言えるほど、まだ情報が十分ではありません。私は素人の目から見た、斬新な意見や意外な着眼を燕太郎くんに求めているのですよ。私のように優秀すぎると、色々と考えすぎてしまって些細な見落としをしてしまうのです」
 となんだか貶されたような気がするが、僕はこの写真の光景を見たことがある。と言ってもフィクションの中でだが。
「これって、『多重人格探偵サイコ』というマンガに書かれてある事件と似てませんか?」
「おっ燕太郎、なんだ詳しく話してみろ」と犬井刑事が身を乗り出す。
「はい、あくまでマンガの中での話なのですが、人間を鉢植えと考える建築デザイナーが出てきまして、女性の頭蓋骨を切り割って、脳みそに花を植え付ける。そして公園の土の中に埋めるんです。頭に植えた花だけを土から出した状態にして」
「……なんてひでえ野郎だ! そんな奴ぁ生かしておけねえ! すぐさまとっ捕まえて死刑台に乗せてやらぁ!」と岩のような手のひらを岩のような拳で叩き、めらめらと瞳を燃やす犬井刑事。
「いやですから、マンガの中の話ですって」悪い人ではないのだが、相変わらず犬井刑事は単純な人だ。これで刑事をやっていけるのか心配になってくる。
「そうかそうか、そうだったな。すまん。だが、その話とこの事件確かによく似ているな。頭に花があるんだもんよ。要はこの事件、快楽殺人鬼のイカれた殺人ってわけか。はっはっは! どうだ探偵! 助手にあっさり推理されたぞ! ざまあねえな!」
 猫崎さんは顔色一つ変えず、冷えたコーヒーを飲み干し、溜息を吐く。
「そんなマンガみたいなことあるわけないでしょう。やれやれ、素人の燕太郎くんなら僕が気付けなかった何かに気付けるかもしれないと思ったけれど……気付かないとなると、これはもう優秀な私が謎を解くしかありませんね」
 やはり貶されているようだ。しかしいつものことであるから僕はもう気にしない。気にしていたら身が持たないのだ。
「犬井刑事のことだ、この死体に関する情報がまだあるはずです」
「なんだとこの野郎! 俺は何も隠し立てしちゃいねえぞ!」と犬井刑事は唸るように声を荒げ、猫崎さんに巨体を詰め寄せる。
「隠しているとは言っていませんよ。ただあなたのことだ、新たに分かった情報を聞いていなかったり、忘れていたり、しているかもしれないと言っているんですよ。そうですね、今のところは、死因と、この死体の額に空いた穴、特に皮膚表面の穴ではなく、頭蓋骨の穴について、詳しく聞いてみてください」
 僕はこの時、猫崎さんが気になることにしては、やけに当然のことを訊くんだな、という間抜けなことを思っていた。しかし猫崎さんはもっともっと先のことを、とんでもないことを考えていた。
 それにまだ事件は続くのだった。
 
 電話をしに外へ出た犬井刑事が、苦い表情で事務所に戻ってきた。
「探偵、お前の言った通りだったよ。俺はてっきり、額に桜の枝が突き刺さったことが死因だと思っていたが、違った。死因は衰弱死。被害者は生前70キロあった体重が、遺体発見時には40キロにまで減っていたそうだ。ずっと食い物どころか水さえ飲んでねえって、司法解剖の結果分かったらしい。そんで桜の枝が刺さった額の穴だが、これは何か機材を使って空けられたものであろう、っつうのが検視官の意見だ。頭蓋骨に開けられた穴がな、綺麗な円だったんだとよ」
「やはりそうでしたか」と猫崎さんは新たに淹れられたコーヒーを冷ましながら、興味なさげな様子で呟いた。
「そうでしたか、って探偵! お前ちっとは驚け! 死因が衰弱死、それも餓死だ! これじゃあまるで……」
「まるで自然死、自殺とでも言いたいんですか?」
 ぐっ、と出そうになった怒鳴り声を飲み込む犬井刑事。彼とは対照的に、冷静な猫崎さんは言葉を続ける。
「その通り、これは自然死。犯人は被害者自身。これは自殺ですよ」
「……ありえねえ」
「ありえるんですよそれが。ただし自殺は自殺でも、第三者の、自殺の協力者の手が加わっていると思われます。被害者の関係者を洗ってください。それと被害者宅にお邪魔しなくてはなりませんね。まだ色々と見落としている物があるはずです」
 すっとしなやかにソファーから立ち上がる猫崎さんは洋服掛けにかけてあるジャケットを手に取り、バサッと大げさな仕草で羽織り、僕のほうへ向きなおり、
「行きますよ燕太郎くん」と言うのであった。
 
「一度署に戻ってみたが、てんてこ舞いだった。上も被害者は自殺と判断したらしいが、何分意味不明なことが多すぎる。なぜ頭蓋骨に穴が空いている? なぜそこに桜の枝を刺す? 自殺したいんなら、なぜ餓死なんていう苦しい死に方を選ぶ? 謎だらけで皆何をどう捜査すりゃいいのか分からん状態だ。一応、お前の言うとおり自殺の協力者を探してはいるものの……な」
 犬井刑事の古いカローラ・セダンに揺られ、僕と猫崎さんは被害者の自宅へと向かっていた。春とはいえど十七時を過ぎると太陽も傾き始めていて、住宅街はオレンジ色に染められていた。
「被害者の名前は冴森賢治、二十五歳。遺体は三日前、八口中央公園で見つかった。自宅はこの近くにあるアパートだ。冴森は私立の大学を卒業後三年間無職だったが、半年ほど前、近くのスーパーに正社員として就職している。職場での評判も良く、さあこれからってときに、一ヶ月ほど前から仕事に来なくなって、職場でも冴森のことを心配していたらしい」
「職場の人たちは、冴森さんのアパートへ様子を見に来たりはしなかったんですかね」
 と後部座席に深くもたれかかっている猫崎さんは言う。
「もちろん行ったらしい。何度訊ねても冴森から反応はなく、とうとう不信に思った上司が大家に事情を話し、冴森の部屋の鍵を開けてもらったらしいが、部屋は綺麗に整理整頓されていて、争った形跡はなかったらしい。その後その上司は冴森の両親に連絡を取り、捜索願を出した」
「それで警察は捜索をしていたんですか」
「……していない。事件性が見られねえ限り、俺らは動けないし、他の事件で出払っちまってるからな」
 ふうん、と軽く溜息を吐き、猫崎さんは窓の外へと視線を逸らした。今の言い方は、まるで警察を責めているような、そんな意味を感じ取らせた。犬井刑事もその空気を感じ取っているのか、眉間に鋭い皺を作っている。
 それからしばらく無言が続いた。僕がまだ知らないだけで、猫崎さんと犬井刑事の間には何かあるのかもしれない。猫崎さんと犬井刑事の付き合いは、僕よりもずっと長い。僕が猫崎さんと出会った事件でも、猫崎さんは犬井刑事と一緒にいた。今まで気にしていなかったけど、二人は一体どんな関係なのだろう。
「着いたぞ」
 どこにでもありそうな普通の二階建てアパート。ただ周囲にはパトカーが数台停まっていて、冴森さんの部屋と思われるドアには黄色いテープが張ってある。
「一応俺の部下たちが捜査しているが、何も怪しいものは出ていねえってよ。どうするよ探偵」
 車を降りアパートを仰ぎ見る猫崎さん。
「何も出ていないなら、今は何もないんでしょうね」
「今は、ってどういうことだよ」
「事件の手がかりというのは、情報があってこそ手がかりとなるのです。まだ情報が少ない今、部屋を探しても何も手がかりは見つからないでしょう」
「じゃあなんで自宅を見たいって言いだしたんだよ」
 足元を見つめながら、猫崎さんは押し黙る。何やかんや言っても、猫崎さんは天才なのだ。無駄足など絶対に踏まない。ここに来たのにも何か理由が、意味があるはずなのだ。
「猫崎さん、自宅に何かあるんですよね。そしてそれは部屋にはない」
「その通りだよ燕太郎くん、自宅にあって部屋にはない、現段階で見つけられる手がかり、私はそれを見つけるためにここに来たのだよ」と地面から目を離さない猫崎さん。そして、一歩一歩、ゆっくりアパートの外壁に沿って歩き始める。僕は猫崎の後ろついて歩く。
「ま、こいつの頭だけは信用しているからよ。ごちゃごちゃ言うつもりはねえけどな」と犬井刑事もついてくる。
 ちょうどアパートの裏、日があまり当たらずジメジメした土が敷かれた場所にまでやってきた。日が当たらないからか草もあまり生えていない。猫崎さんはまだ足元の地面を見つめながら、ゆっくり歩いている。
「見つけましたよ、手がかり」と猫崎さんが急に立ち止まり、後について来ている僕たちを手で止める。
「これが手がかりです」と指差すのは、地面。何も落ちていない地面だ。
「おいおい探偵、お前何言ってんだよ。手がかりなんてどこにもありゃしねえじゃねえか」
「犬井刑事、あなたはもう少し物事を慎重に考えるべきですよ。よく見てください、ここの土、少し盛り上がってますよね。それに色も少し違う。この辺りの土は日が当たらないため水分を多く含んだ色の濃い土ですが、ここだけ乾燥した砂に近い土です」
「なるほど。だが土が何の関係があるっつうんだ?」
 犬井刑事の言うとおりだ。現段階で集まっている情報に、土は何も結びつかない。
「ハァ、これだから凡人たちは。一からですか? 一から説明しないといけないんですか?」
「て、てめえ……」と握り拳を胸の前で震わせる犬井刑事。
「抑えてください犬井刑事、猫崎さんの頭脳無くして、この事件は解決できませんから……ね?」今にも飛びかかりそうな犬井刑事を宥めつつ、僕は目で猫崎さんに、解説を進めるように合図する。
「まず事件の胆である冴森さんの状態を振り返ってみましょう。不可思議な点は三つ。一つは死因が餓死だったこと。二つ目は頭蓋骨に穴が空けられ、そこに桜の枝が刺さっていたこと。そして三つ目、冴森さんの遺体が公園の土に首だけを出して身体は埋められていたということ。そうこの三つ目が、この土が手がかりであることを示しています。痩せているとはいえ、成人男性を埋めるとなると、相当土を掘らなくてはなりません。そして埋められた遺体の分、土が余るはずです。普通なら、余った土はそこらに捨て置きますが、しかし現場の写真を見たところ、周囲に盛り上がった部分は見当たりませんでした。何の目的があるのか知りませんが、その余った土は、おそらくここにある土でしょう。念のため鑑識に回しておいてください」
「なるほどな……現場の土がここにある。確かに大きな手がかりだが、なぜ遺体を埋めるために余った土がここにあると分かったんだ?」
「簡単なことですよ。現場にない、となるなら次にあり得る場所を探すだけ。自宅周辺にあるかもしれないと考えただけです。今の情報では、それぐらいしか考えられないですから」
 そう、猫崎さんは合理的なのだ。今の情報でできることだけをする。そして新たに手に入れた情報を元に、また情報を得て、最後には真実に辿り着くことができるのだ。
「もしかしたら、遺体を埋めるときに使ったスコップも、この土の下に埋まっているかもしれませんね」
「なんだと! なら早速掘り出さねえとな!」と犬井刑事が鼻息荒くトレンチコートの袖を捲りあげる。
「待ってください、まだこの土には手がかりがあります。よく見てください、土のこの辺り、何か跡があります。これは靴跡ですね」
「なんだと……本当だ、こりゃでけえ手がかりだぞ探偵」
「見たところスニーカー等のカジュアルな物や、ヒールの付いた女性用の物ではありませんね。革靴、それもフォーマルな物。滑り止めがなく踵があるものですね。おそらく盛り上がった土を目立たなくするため踏み慣らしたときに足跡が付いたのでしょう」
「……相変わらず、お前の頭はどうかしてるぞ。警察総出でも見つけられなかった手がかりを、たった数時間で見つけやがって」
「無能な警察たちと一緒にしないでください。私は名探偵猫崎なんですから」
「ちっ、相変わらず嫌味ったらしいところを除けば、完璧なんだがな。とりあえず鑑識に連絡を……ん?」
 突然低く鳴る振動音。携帯電話の着信を知らせるバイブ機能のものだ。猫崎さんは携帯電話は持っていないし、僕はバイブが振動するマナーモードに設定していない。
「俺か……おう、なんだ?」とやはり犬井刑事の携帯電話によるものらしく、僕たちから少し離れて通話をし始める。
「何! てめえなんでそれを俺に伝えなかった! 分かった今からそっちに向かう!」
「どうしたんです? 血相変えて」
 近づいてみると、犬井刑事の顔が怒りに震えているような、険しい表情に変わっていた。
「死体が出た……それも土の中に埋まっていて、頭蓋骨に穴が空いていて、さらにはそこに桜の枝が刺さったやつだ……それもそいつは冴森が死亡前日に会っていた、この事件の最重要参考人だったらしい……」通話が切れた携帯電話を握り締める犬井刑事。ぎりりと軋む音が携帯電話から鳴る。
「詳しい話は後だ、今すぐ現場に向かうぞ」
 事件は深まるばかりだった。謎が謎を作り、手がかりは見つけた途端役立たずになっていく。だが猫崎さんはそのことすらも見通していたかのように、冷静な顔をしていた。
 
 アパートの裏にあった土は、冴森さんの遺体が埋められていた公園の土と成分が一致したらしい。また靴跡を採取したあと、土を掘り返したところ猫崎さんの推理通りスコップが出たらしい。
 そして僕たちが知らないところで、最重要参考人という手がかりが見つかっており、そしてその最重要参考人が今、死体となって発見された。
 あの後犬井刑事は僕たちを事務所に送り届けて、現場へと向かった。
 そして次の日に浮かない顔でやってきて、どっかりとまた身体に合わないであろう小さいシングルソファーに巨体を押し込んだ。
「どうやら上の何人かが、お前と一緒に捜査している俺を良く思っていないらしくてな。新たに入った重要な情報は俺に流すな、という命令が部下に下ったらしい。それで最重要参考人、冴森の大学時代の友人、上野純也の情報が俺に来なかったっつうわけだ」
「警察が私立探偵に事件の解決を頼るのは、世間からしてみれば情けなく思えるからでしょうね。さすが警察、頭が固い。そうそう、その上野さんが死体となって発見されたらしいのですが、死体は冴森さんとほぼ同じ状態だったんですか?」
「いや、それが妙なことになっていてな。昨日は、土の中に埋まっていた、と言っていたが、違っていた。確かに冴森のと同じように、頭蓋骨に穴が空けられていて、桜の枝がそこに刺さっていたが……首から下がな、ないんだよ。現場の森には首から下がない、ように思えたが、掘り返してみたらあったんだ。なくて、あったんだ。ああもう訳が分からねえ!」
 僕も訳が分からない。犬井刑事は酷く混乱しているようなので、僕はコーヒーを淹れて、犬井刑事に差し出す。
「お、すまんな燕太郎。いやな、確かに首から下は、なかった。だが掘り返したらあった。いや、掘り返した土の中に、混ざっていたと言った方がいいな。ミキサーで磨り潰したかのように、細かくされた首から下の部分が土の中に混じっていたんだよ。これが現場と遺体の写真だ」
 コーヒーを啜りながら、トレンチコートの懐から数枚の写真を差し出す。冴森さんと同じように、額には桜の枝が刺さっている。ただ違うのは、首から下がないこと。生首の状態だということだ。違う写真では、掘り返した土の中に細かい骨や衣服、肉片などが混ざっているのが写っている。
「俺はただ単に、狂った冴森が自殺を図り、それを幇助したのが上野、というのが真相だと思っていたんだ。だがこれで全てが変わっちまった。署はもう大混乱だ。上も冴森の事件までは自殺という見解だったのが、上野の死体が出てきた途端、コロっと他殺だと意見を変えた。探偵のおかげで手に入った手がかりも、あまり役に立ちそうにねえし、こりゃもうお手上げだ。探偵どうにかしてくれ」
 猫崎さんは淹れたてのコーヒーに息を吹きかけて冷ましている。
「何を言っているんですか犬井刑事。このことで、もう一つ重要な手がかりが手に入ったじゃありませんか」
「なんだって……探偵、本気で言っているのか?」
「私はいつだって本気ですよ。手がかりはいつも単純なところにあります。冴森さんと、上野さん、二人の共通点こそが手がかりになるのです。つまり大学。事件の真相を解く鍵は大学にあるんですよ」
「……それはいくらなんでも単純すぎやしねえか?」
「単純すぎることほど、難しいことはなく、見逃されやすいものはないんです。単純なものは単純ではなく、僅かな複雑性を持ってこそ、人が安易に辿り着きやすい間違った単純となるんです。人は論理的思考に沿って物事を考えます。その論理的思考こそが手がかりを見失わせる元凶。真実である単純をありもしない複雑性によって覆い隠してしまうのです。そう効果的な推理、捜査はローラー作戦、虱潰し、片っ端から当たって、消去法で絞り込んでいくことが真相に辿り着く一番の近道なのですよ」
「それでお前のことだ、その虱潰しの一匹目の虱は、もうおおよそ見当は付いてるんだろ?」
「当然です。私は名探偵猫崎ですから」
 
 僕たちはまた犬井刑事のカローラ・セダンに乗って、冴森さんと上野さんが通っていた大学へと向かっていた。
「しかしよ探偵、頭蓋骨に穴が空いていたことや、桜の枝がそこに刺さっていたこと、それに上野の首から下が細切れにされて土の中に混ぜられたこと、っつー謎は解かなくていいのかよ」ハンドルを握りながら犬井刑事は言う。表情は事務所に来たときよりは明るく、機嫌も良さそうだ。上層部からの圧力や新たな謎など色々あったが、やっぱり犬井刑事は猫崎さんのことを信用しているんだろう。だからこそ、猫崎さんが動けば機嫌も良くなるんだ。時々、二人の絆の太さを羨ましくも思ってしまう。
「そんな分かりにくい謎は、真相に辿り着いてから逆算的に解いていけばいいんですよ。小説やドラマじゃあるまいし、一々そんなことで足止め食らうのは面倒ですからね」
 猫崎さんは推理小説マニアの癖に……でも、こういう摩訶不思議な事件でこそ、猫崎さんはリアリストだ。何をどうすれば事件を解決できるのか、的確に判断する。
「で、虱は誰なんだよ探偵」
「犬井刑事が上野さんの事件現場に行った後、実は私、冴森さんの部屋へ行ってきたんですよ」
 そういえば昨日、あの後「散歩に行ってくるよ」と猫崎さんが事務所を出ていったが……まさかそんなところに行っていたとは。
「おいおい、あんまり勝手なことすんなよ。ただでさえ上から目付けられてるっつうのに。というか、お前よく部屋に入れたな」
「運良く、犬井刑事の部下、確か根津さんって言いましたっけ? あの新米刑事。あの人がいたんで、事情を話したら入れてくれました」
「あの野郎……まあいい、それで何か見つけたのか?」
「ええ、大学のサークルの寄せ書きです。大事そうに飾ってありました。これです」
 と革鞄から正方形の色紙を取り出す猫崎さん。
「お前何持ち出してんだ! お前が現場から持ち出したら、怒られるのは俺と根津なんだぞ!」
「嫌だなぁ、ちょっと借りてきただけですよ。後でちゃんと返しますって」
 猫崎さんだけにネコババ、と意味が変わってくるか。しかし持ち出すほどその寄せ書きには意味があるんだろう。横から書かれている内容を覗き見る。
「分かるかい燕太郎くん、この寄せ書きに書かれた虱潰しの虱の手がかりを」
 『頑張ろうぜ!』『成功を祈る!』『俺たちに出来ないことはない』と言った、ありきたりな内容しか書かれていない。とても手がかりになりそうな書き込みは無いように思えるが……。
「やはりきみには分からないか、ハッハッハ! 分からないだろうね!」
 心の底から楽しんでる笑いだ。本当に、人を馬鹿にするのが好きな人だ。
「勿体付けずに教えろよ探偵」
「仕方ないですね、探偵は勿体付けるものなのですが。犬井刑事は運転中なので、ちゃんと前を見ながら聞いていてくださいね。この寄せ書きは一見なんでもない、とりとめのないことばかり書いているように読めますが、しかしよく読んでみると変なのですよ。例えば『頑張ろうぜ!』という書き込み、これは何を頑張れ、と応援しているんでしょうか。また『成功を祈る!』という書き込みも、何の成功を祈っているのか、と考えれば不自然なことは多いです」
「猫崎さん、それは少し考えすぎなんじゃありません?」
「燕太郎くん、考えすぎ、ということを考えすぎてるよ。手がかりはいつも単純なんだから、単純に考えればいい。冴森さんが自殺する前に会っていた、上野さんの書き込み『俺たちに出来ないことはない』という書き込み。これが一番怪しい。何なんだこの自信は。それに『頑張ろうぜ!』『成功を祈る!』の書き込みから考えて、冴森さんと上野さんは共通の目的があったと考えられる」
「……その、共通の目的とは?」
「それを知るために大学に向かってるんじゃないか」
 猫崎さんは一体どこまで考えて、分かっているんだろうか。教えてくれ、と言ってもきっと笑い、馬鹿にしながら教えてくれないんだろう。とにかく、この不可解な事件の鍵は大学にあるのだ。それで全てが解決する、そう思っていた。
 しかし事件は思わぬ方向へと転がっていく。
 
「初めまして蛇野教授、私、私立探偵を営んでおります、猫崎と申します。こっちは助手の燕太郎です」
 猫崎さんが大学にやってきて、向かった先は研究室。蛇野教授という初老の男性のところだった。
「私立探偵……ですか」訝しそうに猫崎さんの名刺とにこやかに笑う猫崎さんの顔を見比べる蛇野教授。長い白髪と丸く大きい眼鏡に白衣と、怪しげな研究者のように見えるが穏やかな声の質が、彼を知的な人格者のように思わせる。
「ああ、俺、いや私は八口署で刑事をやってます、犬井です」とたどたどしく犬井刑事も自己紹介をする。
「刑事……ああ、あの事件ですか」
「ご存知でしたか、冴森さんと上野さんの事件。教え子さんのご不幸、お辛いとは思いますが、何か知っていらしたらと思い、研究室にお邪魔した次第です」
「あの二人が亡くなったことは、新聞などで取り沙汰されていますので、知っていますよ。非常に残念でなりません」
 苦痛を吐き出すように、顔を俯かせて呟く蛇野教授。皺に囲まれた目は潤んでいて、本当に辛そうだ。
「あの二人のことはよく覚えていますよ。優秀で、独創的な学生たちでした。専攻していた脳科学でも面白い論文を書いて、大学を去っていきました。私は大学院に進んだらどうかと勧めたのですが、学費の問題もあってね」
「お気持ち、お察しいたします。大変恐縮なのですが、このレントゲン写真を見てもらってもよろしいですか」
 猫崎さんは革鞄から二枚のレントゲン写真を取り出す。冴森さんと上野さんの頭蓋骨のレントゲン写真だ。
「発見された冴森さんと上野さんの頭蓋骨です。脳科学者である蛇野教授にご意見を頂きたいのです」
「……穴が、空いていますね」
「そう穴が空いているんですよ。それも綺麗な円形の。なぜ穴が空いているのか。何が目的なのか、とても不思議なのですよ」
「……残念ながら私には何も言えることはないです。脳科学者と言っても、頭蓋骨とはあまり関係ありませんからね」
「では頭蓋骨に穴が空いたことで脳に何らかの変化をきたすことはありえますかね」
「穴から細菌が這入り炎症を起こしてしまう可能性が考えられますね……」
「それ以外で何か変化は?」
「これ以上は私からは何も……申し訳ない、これから教授会議がありますので。この事件についても議題でしてね。お帰り願えますかな」
「これは失礼しました。貴重なお時間を割いていただいてありがとうございました」
「いえ、事件を解決できるなら、なんだって協力いたしますよ」
 猫崎さんは深々を頭を下げ、僕たちを連れて研究室のドアノブを捻ろうとする。しかしふと手が止まり、猫崎さんは振り返らずに言う。
「そういえば生前の冴森さんと上野さんの二人には、何か共通の目的があったらしいのです。それが事件解決の鍵となるかもしれないのですが……蛇野教授は何かご存知ありませんか」
 蛇野教授が一瞬顔を顰めたのを僕は見逃さなかった。すぐに表情は穏やかなものに戻る。
「残念ですが、私は何も知りません。大変申し訳ない」
「そうですか。それでは失礼しました」
 ようやく猫崎さんはドアノブを捻り、僕たちは研究室を出ていった。
 
「ふぅ、なんかよぉ、こう頭の良い奴らの部屋って何か不気味でよ。落ち着かねえな。何の手がかりもなかったし、とんだ無駄足だったな……と言いたいところだが、探偵、その顔は何か掴んだな?」
 僕たちは大学の駐車場で缶コーヒーを飲んでいた。犬井刑事はジョージア・エメラルドマウンテン、猫崎さんはダイドー・デミタスブラック、僕はジョージア・マックスコーヒーだ。
「私が無駄足なんか踏むわけないでしょう。当然掴みましたよ。あの蛇野教授は何か隠してますね」
 不味そうに缶コーヒーをちびりちびりと飲みながら、猫崎さんは続ける。
「私が不思議に思ったのは一つ。頭蓋骨に穴を空ける行為になんら意見を言わなかったこと。蛇野教授は何の意見も言いませんでしたが、実は頭蓋骨に穴を空ける行為は脳科学に関係があるのです。神秘療法として中世ヨーロッパで流行した、故意に頭蓋骨に穴を空ける行為があります。頭部穿孔、またはトレパネーションとも言います。近年トレパネーションがドラマやマンガで取り上げられてますし、また実践し、精神病や頭痛に効果があったという例も発表されています。脳科学者である蛇野教授がこのことを知らないはずがありません。そしてもう一つ、冴森さんと上野さんが持っていた共通の目的について、何も知らないと答えたこと。この答えに矛盾するものを、今私は持っています。冴森さんが持っていた寄せ書き。ここに蛇野教授の書き込みがあります」
 筆ペンで書かれたのか、書道家が書いたような達筆な文字だ。それらの文字が形成する文章、それは『私も成功を祈っているよ。何かあったら遠慮せず連絡するように』。
「蛇野教授は冴森さんと上野さんが所属していたサークルの顧問だったのだと思われます。だからこの色紙にも書き込みをしていた。そしてこの文章、蛇野教授は冴森さんと上野さんが持っていた共通の目的を知っているのです。しかし蛇野教授は知らないと答えた。間違いなく何かを隠している。鍵は、トレパネーション、冴森さんと上野さんの目的、蛇野教授……」
 推理から、途中からぶつぶつと自問自答の呟きに変わっていった。
 僕たちはかなり真相に近づいているはずだ。しかしまだ僕には何が何だか分からない。どうして冴森さんは頭蓋骨に穴を空け、自殺をし、土の中に首から下が埋まり、桜の枝が刺さったのか、どうして上野さんは首から下が細切れになって土の中に混ざったのか。
 読者諸君には分かっただろうか。この摩訶不思議な事件の真相が。
 いよいよ猫崎さんの推理が佳境を迎える。
 
「つまり、冴森と上野はトレパなんとかっつうのをやっていたんだな」
トレパネーションですよ犬井刑事。そう、冴森さんと上野さんはトレパネーション手術を受け、額頭蓋骨部に穴を空けた。そして冴森さんは自殺し、上野さんは謎の死を遂げた」
「それにしてもよ探偵、トレパなんとかを受けたところで何になるっつうんだ? 頭蓋骨に穴を空けるだなんて、正気の沙汰じゃねえ。冴森と上野の目的がなんだったのか知らねえが、頭蓋骨に穴まで空けるなんてことするのかよ」
 そう、正気の沙汰じゃトレパネーションなんてことはしない。しかし僕は、トレパネーション手術を受けることで得られる可能性、冴森さんと上野さんが抱いていたかもしれない目的を、予想できる。
「正気の沙汰じゃなかったんですよ。そうこれは狂気が元凶の悲劇……トレパネーションを受けることで得られる効果は精神病や頭痛の改善だけではないのです。もう一つの効果、それは超能力の会得」
 猫崎さんも同じことを考えていたようだ。そう、トレパネーション手術を受けることで、超能力を得られるという仮説がある。マンガ作品『ホムンクルス』でもそれは扱われている。主人公はトレパネーション手術を受けることで、人の深層心理を視覚化する超能力を得た。
「人の頭蓋骨には繋ぎ目がありまして、乳幼児のときはその繋ぎ目の隙間が大人よりも開いているそうです。乳幼児は霊感覚や超能力を持っていて、大人になるに従ってそれらは失っていく、という考えがあるそうです。それは頭蓋骨の繋ぎ目が大人になるごとに塞がっていくからだとも、その仮説では言われています。ですのでトレパネーション手術、つまり頭蓋骨に穴を空けることで、疑似的に乳幼児の頭蓋骨の状態にし、超能力を取り戻す……昔からある疑似科学の一つですよ」
「まさか冴森と上野の目的っつうのは、超能力を手に入れることって言いてえのか!」
「はい、ここまでは間違いないでしょう。冴森さんと上野さんは、超能力を手に入れるためにトレパネーション手術を受けた。その手術をしたのは、おそらく蛇野教授……この大学では医療器具は十分あります。清潔な状態で正確に頭蓋骨に穴を空けることは、教授という立場を利用すれば可能です。また寄せ書きにもあった『成功』という単語も、超能力を得ることが目的とすれば文脈に違和はありません」
「ならなぜ冴森は自殺し、上野は死んだんだ……」
「犬井刑事、考えても見てください。頭蓋骨に穴を空けるんですよ? そんなことしたら、脳になんらかの障害が起きてもおかしくありません。精神を病み不可解な自殺を図ったり、残虐な殺人を犯しても、不自然ではありません」
「残虐な殺人……ってえと、上野の事件か!」
「そうです。冴森さんが自殺したのは間違いありません。しかし上野さんのほうはまだ謎が多い。自殺と考えるのは早計です。だとすれば殺人……そして今、現状で考える犯人は一人しかいません。冴森さんと上野さんにトレパネーション手術を施した、蛇野教授」
「なるほどな。しかし頭蓋骨に穴を空けた冴森と上野が狂っちまったってのは分かる。だがなぜ蛇野教授が上野を殺さなくてはならなかったんだ?」
「何も冴森さんと上野さんだけがトレパネーション手術を受けたとは限りません。蛇野教授も、トレパネーション手術を受けたんですよ。手術日を変え、冴森さんと上野さんに手術してもらえば蛇野教授もトレパネーション手術は受けられます。そして三年という月日を経て、脳は異常を起こし、この凶事を引き起こした……」
「よーし……なら後は蛇野教授をとっ捕まえて吐かせりゃ済む話だ! と言ってもイカれた野郎だ、話にならんかもしれねえな」
「その時は蛇野教授の自宅、または研究室を家宅捜索してみてください。トレパネーションに関する資料が残っているかもしれません」
 冴森さんは自殺し、上野さんは蛇野教授が殺した。全てはトレパネーション手術が引き起こした、狂気の事件。それで全てが解決した、と僕はその時思っていた。だが読者諸君、まだ終わってはいなかったのだ。ぼそりと「そうだったらどれだけ良いか」と猫崎さんが呟いたのを、僕は聞いた。
 事件は蛇野教授を確保してから、さらに続く。
 犬井刑事が署に応援を呼びに行っている間、猫崎さんは僕にこう告げて去っていった。
「私は八口自然公園にいるからね。いいかい、八口自然公園だ。何かあったらここに来ると良い。来るときは、そうだな可能ならば一人が良い。それが無理なら犬井刑事だけ連れて来てくれたまえ。このことは、何かあるまで誰にも言ってはいけないよ。分かったかい燕太郎くん」
 じっと、猫の目のように丸くて大きい瞳を僕から逸らすことなく、一言一言、子どもに言い聞かせるような言い方だった。
「分かりました猫崎さん。それで、僕はこれから何をすればいいんですか?」
 猫崎さんは顎に手を当て、さも名探偵らしく考え込み、そして口を開く。
「そうだな、きみには私の代理をしてもらおう。誰かに私が呼ばれたら、代理として行って、要求を叶えたまえ。まあ私の代理としてきみが果たせることは、とても限られるだろうがね」とにやりと笑った。全く、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだろうかこの人は。
「それではしばしのお別れだ。達者でやれよ燕太郎くん」
 そのとき時刻は十七時半を回っており、夕陽が広い大学の駐車場を燃やしていた。颯爽と歩いていく、細身のスラックスに脇が絞られたジャケットを着た猫崎さんの姿は、なんだか寂しそうに見えた。死期を悟り人気を避け、誰もいない、死に場所を探す野良猫の姿と被り、後を追いかけたくなった。だが僕には猫崎さんから、何かあるまで猫崎探偵代理を託されたのだ。追いかけてはならない。猫崎さんは僕を信頼して頼んだのだ。期待して頼んだのだ。ならばその期待に応えなければなるまい。
 
「おい燕太郎、探偵はどこ行った?」
 応援を呼びに行った犬井刑事が帰ってきた。胸の辺りに不自然な膨らみが見える。きっと、拳銃であろう。殺人者の確保だ。携帯を許されても不思議じゃない。
「用があるとかでどこかへ行ってしまいました。猫崎さんがいない間、僕が代理を務めろ、とのことです」
 そう伝えると、思いっきり不安そうに犬井刑事は顔に皺を作る。彼は元々彫りの深い顔立ちをしているので表情が読みやすいのだ。だからといって、そこまで露骨に迷惑がらなくても良いではないか。
「いやな、実は蛇野教授の逮捕状と家宅捜索のための捜査令状を出してもらうと上に要請したんだが……蛇野の野郎、中々偉い立場の人間らしくてな、上が渋って令状出してくんねえんだよ。仕方ねえから、任意で引っ張ろうと思ったんだがよ、中々頑固で研究室から動こうとしねえんだよ。話も聞こうとしやしねえ。しばらく粘って、ようやく話ができたと思ったら『猫崎探偵となら話をしよう』って言うんだよ。ったくクソ探偵、この大事なときにどこ行きやがった!」
 これだ。猫崎さんが言った『誰かに私が呼ばれたら、代理として行って、要求を叶えたまえ』を果たすときだ。
「今は僕が猫崎探偵事務所の探偵です。行きましょう犬井刑事、蛇野教授のところへ」
「ま、探偵も何か考えがあってのことだろう、行こうじゃねえか」
 のっしのっしと大学校舎へ向かって行く犬井刑事。この筋肉岩男がいれば、蛇野教授が襲って来ても大丈夫だろう。僕も犬井刑事の後をついていく。
 大学の照明は感知式らしく、人が通ると自動的に灯りが点いていく。灯りが点くのはありがたいのだが、進行方向の先はセンサーが反応するまで真っ暗で、とても薄気味悪い。
「そうビクビクするな探偵代理、俺が付いているし、研究室前では応援の警官が既に待機している。ほら、二人もいるから安心しろ」
 と犬井刑事が指差すところには確かに制服警官が二人、研究室の扉の前に立っていた。
「ご苦労様です刑事殿!」と二人が仰々しく敬礼をする。
「おうご苦労さん」
「失礼でありますが、そちらの方が有名な猫崎探偵でありますか!」と二人の制服警官の片方が敬礼の形を崩さないまま、僕の方を見る。
「残念だがこいつは探偵の助手で、燕太郎っつうんだ。今は事情があって、こいつが探偵の代理だ」
「そうでありますか! 助手殿、頑張ってください!」とまたも敬礼。嫌に熱血な警官である。しかし、有名な猫崎探偵、とは。警察じゃ有名なのか猫崎さん。
「とにかく、蛇野のジジイは探偵としか話せねえと突っ張ってる。だからお前がビシッと探偵代理として話をして来い。何かあったらすぐに俺を大声で呼ぶんだぞ。扉の前でいつでも突入できるよう、待機してるからな」
 そんなこと言われると、嫌でも緊張してくる。扉のノブがやけに冷たく感じる。大丈夫だ、僕は今、猫崎さんの代理なんだ。あの天才猫崎さんから頼まれたんだ。話ぐらいできるはずなんだ。
 僕は意を決してノブを捻る。呆気なく開かれる蛇野教授の研究室の扉。中は明るく、嫌な予感など感じさせない。一歩足を踏み出す。もう一歩。身体を入れ、そしてドアを閉める。蛇野教授は奥の椅子に座って机に向かっている。つまりこちらには背中を向けている。
「猫崎くんかね?」低くも柔らかな蛇野教授の声。
 彼が、冴森さんと上野さんの頭蓋骨に穴を空け、また自分自身の頭蓋骨にも穴を空け、気を狂わせ、上野さんを殺害したのだろうか。僕にはそう見えない。
「いえ、猫崎ではありません。助手の燕太郎です。今は訳あって、猫崎の代理を務めています」
「燕太郎?……きみか」椅子を回転させて、こちらを向く。僕を見る蛇野教授の目は優しく、大人しい。初老の、人格者の目だ。
「ふむ、なるほど。そういうことか。なるほどなるほど……」変に訝しることもなく、一人で合点した様子で、蛇野教授は立ち上がる。
「まあこちらに座りたまえ。変に固くなることもない。なに、獲って食ったりなどせんよ」
 研究室の真ん中にある、テーブルを挟んだ革張りのソファーに勧められる。勧められるがまま、僕はソファーに座る。ぎちちと革が擦れる音。
「コーヒーでも飲むかね?」と蛇野教授は本棚の隣にあるコーヒーメーカーに二つのカップを並べた。「私はコーヒーが好きでね、日に十杯ぐらい飲んでしまうんだよ。気が付くとコーヒーを飲んでいる。研究には欠かせない物だよ」こぽぽとコーヒーが注がれる心地良い音。
「猫崎さんもコーヒーが好きで、よく淹れさせられています。ただ彼猫舌でして、淹れたてのは飲めないんですよ」
「ハッハッハ! 猫舌なのにコーヒー好きとは、面白いね。いや、猫崎だけに猫舌……ハッハッハ! 駄目だ、考えるだけで笑ってしまう。すまない」
「いえ、笑ってもらって構いませんよ。僕も最初は笑ってしまいました」
「猫崎くんは実に面白い男だね。ほんの数分しか話していないが、彼に強い興味を抱いたよ。たまに新聞で報道されているだろう? 名探偵猫崎。先ほど読み返してみたが、実に面白い推理をしている。できたら一度ゆっくり話を聞きたかった」
 コーヒーカップを二つ持って、蛇野教授は向いのソファーに座った。一つのコーヒーカップを差し出される。もし蛇野教授が狂っていたら、このコーヒーには毒が入っているかもしれない。飲むのはやめておくか?
 だがそう思った瞬間「毒など入っていないから安心して飲みたまえ」と蛇野教授が言ったので、僕はぎょっとしてしまう。
「いえ、そんなことなど考えては……」
 仕方なくコーヒーカップに口を近づける。参ったな、何を話せば良いんだろう。猫崎さんは何を思って僕を代理にしたんだろう。何をすれば良いんだ。何を……。
 コーヒーを一口分、口に含む。するとコーヒーの香ばしい香りがふわりと口に広がりさっと鼻から抜け、濃い苦味が次の瞬間にはもうきりっとした酸味へと変わっていて、気が付いたら味が消えていた。美味しい。こんなコーヒーがあるのか。
「口にあったかな?」と眼鏡のレンズをクロスで拭きながら、嬉しそうな明るい語調で蛇野教授は言った。
「美味しいです。香りが良くって、味は濃くてもキレがあるというか、嫌に酸味の後を引かない……どこの豆を使ってるんですか?」
「豆なんて市販のものだよ。これは豆の挽き方と水が違うんだ。水は少し良いものでね。研究に使うと言えば、大学が買ってくれるんだ。おっとこれはここだけの話にしておいてくれ」と深い笑い皺を見せた。「ゆっくりゆっくり豆を挽くんだよ。電動ミルではなく、手挽きミルでね」
「今度ミルを使ってみます。いつも電動なので」挽き器が違うだけでこんなにも味が変わるなんて思ってもいなかった。
「ところで、猫崎くんときみは長い付き合いなのかい?」
「長いというほどでもないですよ。会って助手をやり始めてからまだ二年くらいですかね」
「いやね、これはただ私の勘みたいなものなんだがね。これから先、猫崎くんには色々と大変なことが起こるだろう。だから燕太郎くん、きみが彼を助けてあげるんだよ。猫崎くんにはできないことが、きみにはできることもあるんだから。自信を持ちたまえ」と蛇野教授は自分で淹れたコーヒーを美味しそうに、ごくり、ごくり、と味わないながら言った。
「自信持っても良いんでしょうか。たまに思うんです。天才の猫崎さんの足を僕が引っ張っているんじゃないかって。僕にできて猫崎さんにできないことなんて、ないんじゃないでしょうか」
「何を言ってるんだ燕太郎くん。きみはあの猫崎くんの助手だろう? 猫崎くんが助手としてきみを選んだんだ。何か、猫崎くんにはないものを、彼はきみに感じ取ったんだろう。現に、燕太郎くんにできて猫崎くんにできないことが一つある」
 と愉快そうににやけながら、蛇野教授は眼鏡の位置を直す。
「僕にできて猫崎さんにできないこと……?」なんだろう。いや、猫崎さんにできないことがあるのだろうか?
「それはね、コーヒーを上手く淹れることだよ。彼はいつもきみが淹れるコーヒーを飲むんだろう? それは猫崎くんがきみの淹れるコーヒーが好きな証拠だよ。ただそれだけでも、きみは胸を張って良いと思うがね」と蛇野教授が笑うたびに長い白髪が揺れる。
「そんなことで良いんでしょうか」僕はもっと大事なことをしなくてはいけないんじゃないか。妙な不安感がずっと心の底に残っている。
「そんなことで良いんだよ。人というのはそんな単純で簡単なことで補完し合えるんだからね。それに良いコンビじゃないかきみたち二人は。いや、トリオかな? そこの扉の前で立っている、犬井刑事とか言ったかな。彼らときみは、上手くいっているよ。そう私が断言しよう。なに、彼らが一仕事終えたら美味しいコーヒーでも淹れてあげるといい。そうだ、私が持っている手挽きミルをあげよう。きみが良かったらだが」
「それは、ありがたいです。でも良いんですか?」
「構わないよ。私はもう使わないからね」
 と言って蛇野教授は手挽きミルをハンカチで軽く拭いてから、包装用紙に包み始めた。なぜだろう、蛇野教授と話しているととても心が落ち着く。僕は今まで、蛇野教授のような優しくも聡明で落ち着いた人とは出会ったことがない。
 こんな人が本当に、冴森さんと上野さんに、そして自分自身にもトレパネーション手術を施し、そして脳に異常を起こして上野さんを殺害したんだろうか。やっぱり僕にはそう思えない。猫崎さんの推理が今まで外れたことはなかったけれど、今回ばかりは違うと思う。いや、推理が外れていて欲しい、と思っているのが本音か。これじゃあ僕は探偵助手失格だな。
「私が上野くんを殺害したのだと疑っているんだろう」包装紙をテープで固定しながら蛇野教授は言った。変わらず穏やかな声。
「そんな、つもりは……」
「ほとんどその推理は当たっているよ。私が上野くんを、いや冴森くんさえも、殺してしまったと言っても良い」
 手を止めず言葉を続ける蛇野教授。
「あの時の私たちは狂っていた。脳科学の先を行くため、トレパネーションなどに手を出してしまった。それがこんなことになるとは……神は残酷だよ。いや、私たちが神の領域に踏み込んでしまったからかもしれない。きっと、そうに違いない」
 手挽きミルを包み終えた蛇野教授はこちらに向き直る。
「すまないが、後ろの棚の上にある紙袋を取ってくれないか、年を取るとちょっとしたことで息が切れてしまってね。なかなかそこには手が届かないんだ」
 なぜ蛇野教授は猫崎さんの推理を知っているんだろう。どこかで聞いていたのか、いやあり得ない。猫崎さんが推理を話していた場所は見通しの良い広い駐車場だ。隠れられるような場所なんてどこにもない。
「お安い御用ですよ」僕は後ろを向いて棚の上に手を伸ばす。紙袋が指に触れ、それを摘まみ引きずり取る。
「これですよね蛇野教授」と振り返った場所に蛇野教授の姿はなかった。
「蛇野教授?」いない。隠れられるような場所など、この研究室にはない。
「蛇野教授!」机の下なども念のため覗いてみるが、やはりいない。どこにもいない。
「蛇野教授!」そんな馬鹿な。あり得ない。そんなことがあってたまるものか。
「どうした燕太郎!」僕の怒鳴り声を聞いたのか、犬井刑事が慌てて研究室に入ってくる。
「……蛇野教授が、消えた」
「馬鹿言ってんじゃねえ! 消えるわけねえだろ!」とドタバタと犬井刑事はあちこちひっくり返しながら怒鳴る。
「そうだ窓から逃げやがったんだよあのジジイ!」と犬井刑事は窓のブラインドを上げ、窓を開ける。そこには春の夜が広がっていた。大学といえど住宅街にあれば灯りは少なく、星空も綺麗に見える。ましてや、ここは五階だから余計に綺麗に見えるのかもしれない。
「あり得ねえ……」
 蛇野教授は消えた。
 
「八口自然公園だな! 何かあったらそこに来いと、探偵は言っていたんだな!」
「はい、確かにそう言っていました。しかし蛇野教授が消えることすらも、猫崎さんは推理していたんでしょうか」
「さあな、だが蛇野のジジイがこの事件の鍵だっつうことは当たっていた。燕太郎が話している間、家宅捜索の令状が出てな、蛇野のジジイの家を漁れたらしい。そこには、ある人物を監禁していた形跡があった。おそらく冴森を監禁していたんだろう。あのクソジジイ、上野だけでなく冴森も殺していたんだよ! 飯も水も与えず、ゆっくり冴森を殺していったんだ!」
 『冴森くんさえも、殺してしまったと言っても良い』蛇野教授は確かにそう言っていた。だけど本当にそうなんだろうか。あんなに良い人が、どうして教え子を二人も殺さなくてはならなかったんだ。
「くそったれ! 探偵は一体何を考えていやがる!」
 僕は犬井刑事の運転で、猫崎さんが言っていた八口自然公園へと向かっていた。大学からは自動車でも二十分はかかるところだ。しかし八口自然公園に何があるんだろう。猫崎さんはなぜそんなところにいるんだろう。分からない。
「着いたは良いものの、この広い公園じゃ探偵がどこにいるか分からねえな」
 八口自然公園の駐車場に車を停め、僕と犬井刑事は人気もなく暗い自然公園を見回す。どこにいるのか全く見当も付かない。しまった、あらかじめどこにいるのか聞いておけば良かったんだ……情けない、僕は探偵の、猫崎さんの助手なのに。蛇野教授も猫崎さんもどこにいるのか分からない。
 目に熱いものが溢れてくるのが分かった。それを溢れさせまいと仰ぎ、堰き止める。そのとき広い八口自然公園の端に、明るい場所があるのを見つける。
 桃色が鮮やかに照らし出されている。桜だ。そうだった。この季節、八口自然公園では夜に桜をライトアップしているのだ。
 桜……そう、桜だ。冴森さんと上野さんの頭に刺さった桜の枝。もしこの事件に加害者がおらず、被害者しかいないのだとしたら、次に桜の枝が刺さるのは、蛇野教授。
「犬井刑事! あそこです! 桜がライトアップされているところ! そこに猫崎さんと、きっと蛇野教授がいるはずです!」
「ああ! どうしてそんなことが……ああもう面倒くせえ! 探偵の助手の直感てやつを信じてやるよ!」
 僕たちは桜に向かって走り出す。足元もよく見えない暗闇の中、ぽつんと浮かび上がる大きな桜の木に向かってひたすら走る。こんなに全速力で走ったのは久しぶりだ。息が追いつかない。一呼吸する間に足が三、四往復している。しかし犬井刑事は全くの余裕で、呼吸が乱れていないどころか「うおおおおおおお!」と雄叫びをあげながら走っている。さすが筋肉馬鹿だ。
 そしてようやく辿り着いた桜の木。春の静かな夜風に花びらがふわふわと舞い、まるでそこだけ雪が降っているかのようだ。そしてそこには、すらりと伸びた長い腕を桜の木の枝に伸ばしている、細身で長身の男、猫崎さん。それに染み一つない清潔そうな白衣を纏った、やはり穏やかな表情の蛇野教授。
「蛇野ァアアアアアア!」と蛇野教授の姿を見た途端、突進し始める犬井刑事。
 だがそれを止めたのは猫崎さんだった。
「待ってください犬井刑事! 蛇野教授は犯人ではありません!」濁りのない、怒鳴り声にしては綺麗な声だった。
「ああ? どういうことだ探偵説明しろ!」
「燕太郎くん、きみにはもう分かっているんじゃないか。この事件の真相を」
 そう、この事件には。
「燕太郎くん、きみが思っている通り、この事件には犯人など存在しない」
「違う! 私が、私冴森くんと上野くんを殺したんだ!」急に荒々しく声をあげる蛇野教授。
「いいえ、あなたは犯人ではありませんよ蛇野教授。もしあなたが犯人だとするのなら、冴森さん、上野さんも犯人になります」
「違うんだ! 私の責任なんだ! 私があんな狂った研究を認めなければ……」
「……どういうことなんだ探偵」
「全てを説明しましょう。これより、名探偵猫崎、推理を始めます」
 ザアアアと強い風が吹き、辺りに舞っていた桜の花びらが吹き飛ばされる。その直後訪れる無音。風が止み、桜の枝の揺れも止まる。
「最初のきっかけは三年前の冴森さんと上野さんの、大学在籍時の研究でした。彼らは共同研究として、トレパネーションを題材としました。このことは大学に残っていた彼らの卒業論文で分かりました。トレパネーションによって引き起こされる脳の変化の研究、それが表向きの目的。しかし裏の目的は、トレパネーションによって得られる超能力の研究、だった。それを後押ししたのは蛇野教授、あなたですね」
 力無く項垂れる蛇野教授はわずかに首を縦に振った。
「ここまでは私たちも容易に辿れました。しかし問題はこの先。最初私は、冴森さん、上野さん、そして蛇野教授、あなたたち三人の脳に障害が起こり、冴森さんは自殺、上野さんは蛇野教授によって殺害、それも常人には理解不能な方法を用いたのだと考えていました。しかしそれは違った。私は冴森さんと上野さんの脳を検死官に調べてもらいましたが、脳はトレパネーションの穴が原因の炎症など、起こしていなかった。二人は狂ってなんかいなかったんですよ。ならば考えられることは一つ。トレパネーション手術による超能力取得は、成功していた」
「……超能力だぁ? 探偵、お前こそ狂ったか!」
「落ち着いてよく考えてみてください。おそらく、蛇野教授は燕太郎くんの前から一瞬で姿を消したんでしょう? それが今、こうしてここにいる。監視の目を掻い潜り、さらには大学から車を使っても二十分はかかるこの八口自然公園に、どうやってこの身一つで来れたと説明できるんです? 考えられる方法は一つ。単純なことですよ。瞬間移動、テレポーテーション」
「馬鹿な、あり得ねえよそんなこと……」
「実際に、蛇野教授は私の目の前に瞬間移動して来ましたしね。燕太郎くんも思い当たることがあるんじゃないかな。たとえば、心を読まれているようなこと、なかったかい?」
 ある……猫崎さんが話してくれた推理を蛇野教授は知っていた。それに僕がいつも不安に思っていたことを、それとなく相談に乗るような形で話をしていたが、あれも僕の心を読まない限り、今日会ったばかりの蛇野教授が分かるはずもない。それに猫崎さんの居場所もあの時僕しか知らなかったわけだから、蛇野教授が僕たちより先に猫崎さんのところにいるのは、心を読んだとしか考えられない。
「上野さんの不可解な死体も、超能力で説明できます。もしテレポーテーションが失敗したとしたら、どうなると思います? 例えば地面の中に瞬間移動するよう超能力を使ったとしたら……これはまだ私の中での仮説なのですが、一度超能力でバラバラになった身体を、隙間のない土の中に押し込んだとしたのなら、行き場のないバラバラの身体は土に混じることになる。首だけは辛うじて残り、あのような死体となってしまった。つまり上野さんも自殺だったんですよ。超能力を使った自殺。冴森さんの件も、細かく言えば超能力を使った自殺でしょう。先ほど蛇野教授の家宅捜索の資料を貰いましたが、蛇野教授宅には誰かを監禁していた形跡があった、おそらく冴森を監禁し餓死させた。とあります。しかしこれは大きな間違い、蛇野教授は冴森さんを監禁してはいないのです。むしろその逆、保護していた。自殺を図ろうとしていた冴森さんを、死なせないために。ですよね蛇野教授」
「ああ、全てきみの言う通りだよ猫崎くん。さすがは名探偵だね」
「ありがとうございます。ただ分からないのは、超能力を得た冴森さんと上野さんがなぜそうも自殺したがったのかということ。それがどうしても分からない。教えてもらえませんか?」
「いいだろう、きみたちには全てを、真実を知る権利がある」
 また強い風が吹き、一瞬散っていく桜の花びらで蛇野教授の顔が隠れた。
「私たちはトレパネーション手術で超能力を得た。実験は成功したんだ。最初は共感覚を得た。共感覚とは、音に色を感じたり、文字に音を感じたり、触覚に映像を感じたりできる能力のことだ。乳幼児の頃は皆持っている持っている能力だがね。トレパネーションによって疑似的に作り出した乳幼児の頭蓋骨状態が引き起こした最初の結果だ。次に得たのは読心術、人が思っていること、見たこと、聞いたことなど、全ての情報を感じ取ることができた。感動したよあの時は。人間の新たな可能性を見つけたことにね。だがそこから少しずつ事態は悪化していく。超能力を手に入れたことで、冴森くんと上野くんはそれらを悪用しようと考えていた。私も読心術を手に入れたからね、二人が何を考えているのかすぐに感じ取ったよ。私が二人を説得するまで、三年ほどかかった。三年間、二人は働きもせず超能力で小銭を稼ぐ毎日だった。だがようやく二人を説得でき、冴森君はスーパーマーケットに就職できた。それで全てが良い結果に収まったのだと、私は勘違いしていた。私たちが得た超能力と言うのはね、木で例えると、枝から幹へと戻っているようなことなんだよ。最初に得た共感覚、それは乳幼児の状態を再現することで得た。次に得た読心術は、人々の集団的無意識に遡ることで得たんだと考えている。これは心理学の領域だがね、カールグスタフ・ユングを知っているかね? 有名な心理学者なんだが、彼は人々の精神の奥底には、全てが繋がっている領域があると考えた。それが集団的無意識。私たちの読心術とは、意識をそこまで遡らせ、潜り込むことで他人の意識に這入り込むことなんだ」
 そこまではまだ良かったんだ、と蛇野教授は苦々しく呟いた。
「集団的無意識とは、いわば生物の本能、生まれる前から与えられている領域なのだと、私は考えている。乳幼児、集団的無意識、と私たちは遡っていった。そうした私たちが辿り着くのはどこだと思うかね、猫崎くん」
 猫崎さんは表情を一切変えずに言い放つ。
「生まれる前の領域、つまりは死」
「その通り。私の思った通り面白い男だきみは。人が木の枝の末端だとすると、共感覚は幹、集団的無意識が根だとする。そしてその次が、全てを生み出す大地。となるわけだ。猫崎くん、冴森くんも上野くんも、意識を奥深くまで潜らせてしまって、とうとうその大地、すなわち死に辿り着いてしまったんだよ。彼らは死を望んでいた。死にたい、と告げられたときは私も驚いたよ。昨日まで「これからは真面目に生きていきますよ!」と照れながら言っていたんだからね。私は彼らの自殺を必死に止めようとした。まず、一番自殺願望の強かった冴森君を自宅に保護した。だが彼は何も食べようとも飲もうともせず、ただひたすら衰弱していく一方だった。これではいけないと、大学に置いてある点滴を持ってこようと出かけたとき、冴森君はテレポーテーションを使い、そして上野くんを呼び自殺を図った。まさかテレポーテーションまで使えるとは思ってもいなかったよ。あれは、死の領域に辿り着いたものだけが使える超能力なのだろうね。冴森くんが自殺する間際、彼は私にテレパシーを送ってくれた。『教授ごめんなさい。せめて誰の迷惑にもならないよう、スコップと土は俺のアパートの裏にテレポートさせました』ってね。悔しくて、冴森くんのアパートに行って、その土を何度も何度も踏みつけたよ。ここまで私が何もできないとは思っていなかったからね。その次は上野くんだ。彼はスコップで穴を掘るなどということはせず、土の中に直接テレポートした。一瞬とはいえ、想像できないくらいの苦痛が全身を襲っただろうに……。だがね、二人が死んでようやく私の番が来たようだ。これ以上超能力を使わないようにしようと努力していたんだが、どうやら一度遡った流れというのは戻せないらしくてね、とうとう私も死の領域に入ってしまった。死が恋しくて恋しくて溜まらないんだよ。今ならあの二人の気持ちが良く分かる。ずっとずっと幼いころに呼びかけられた母の声のように、死が私を呼んでいるんだ」
 蛇野教授が白衣の懐から桜の枝を取り出す。
「きみたちに会えて本当に良かったよ。一日だけの付き合いだが、最後に良い出会いをした」
 桜の枝を握りしめた蛇野教授の手が、額へと向かっていく。
「犬井刑事止めてください!」猫崎さんの透き通った怒鳴り声が響く。
「言われなくても止めるってんだ!」犬井刑事の巨体が一目散に細長い蛇野教授へと向かっていく。
「動くな」
 ビデオの一時停止ボタンを押されたかのように犬井刑事の身体が止まる。いや犬井刑事だけじゃない、僕の身体も指先一つ震えすらもできない。どうやら猫崎さんも同じなようだ。これが超能力……。
「私を助けようとするなんて、きみたちは素晴らしいトリオだよ。ありがとう。だがもう誰にも止められないんだ。燕太郎くん、この後きみがすべきことは分かっているね?」
 僕がすべきこと、僕にできること
「どうして二人が額に桜の枝を突き刺したのか、今まで不思議だったよ。これも今になってみれば分かる。私たちは木に例えられると言ったね。そう、どうせ例えられるなら綺麗な木が良い。それも一瞬だけの美しさ。それは桜が一番相応しい。桜の花は命のように一瞬で終わってしまう。それじゃあ、さよならだ」
 グジュリ、熟れたトマトが落ちて潰れるような音。この世で一番嫌な音だと思う、人が死ぬ音だ。
 ふっと、凍っていたように動かない僕の身体が溶けたようにぐにゃりと動いて、上手く体勢が取れずに地面に倒れてしまう。犬井刑事、猫崎さんもばたんばたんと地面に倒れる。
「救急車、救急車を呼んでくれ燕太郎くん! 大至急だ!」猫崎さんはすぐさま起き上がり、怒鳴る。
「犬井刑事は心臓マッサージと人工呼吸をお願いします! 早く! 間に合わなくなってしまう!」
 だけど、僕たちの身体はもう動けるはずなのに、動く気がしなかった。
「何を寝転がっているんだ! 早くしたまえ!」また猫崎さんが怒鳴る。
「探偵」犬井さんがポツリと言葉を漏らす。震えた声だ。
「どうしたんですか犬井刑事! 人を助けるのが警察なんでしょう!」
「もう手遅れだ。死んでるよ。蛇野教授は死んだ。もう助からねえ」
「そんな、嘘だ。私の推理で、人が助けられないなんて……嘘だ……」
「嘘じゃねえ、現実だ」
 猫崎さんはがくりと膝から崩れ落ち、茫然とライトアップされた桜を見つめていた。
 
 この奇妙な事件は表向き蛇野教授が犯人、ということで終わった。犬井刑事が最後まで反対していたが、なにせ超能力というあり得ないことが関わった事件なので、ましてや犬井刑事自身説明するのが下手なのもあり、結局犬井刑事の抵抗も無駄に終わってしまった。
 あれ以来、猫崎さんは事務所に閉じ籠ったまま、何をするでもなくボーっとしている。
 僕はというと、あの時蛇野教授が言った『きみがすべきこと』をずっと考えている。ぼくは猫崎さんに何をしてあげられるだろう。
 そういえばあれ以来コーヒーを淹れていない。蛇野教授の研究室で飲んだ美味しいコーヒーを、僕にも淹れられることができるだろうか。
 僕はしまってあった手挽きミルを出し、コーヒー豆を入れて、ゆっくりゆっくり丁寧に豆を挽いていく。ドリップペーパーを丁寧に取り付け、一度少量のお湯を挽いた豆に垂らし、少し蒸らす。最初のドリップ液は捨て、中間のドリップされたコーヒーをマグカップに注いでいく。
 淹れたての熱々コーヒーができあがった。それを、窓際で終わる春の日を浴びながらボーっとしている猫崎さんの傍にそっと置く。
 コーヒーに気付いたのか、変わらず浮かない表情のまま猫崎さんはマグカップに手を伸ばし、薄い唇を近付ける。
「あっつい! なんだよ燕太郎くん! これアツアツじゃないか!」
 久々の、いつもの猫崎さんだ。コーヒーは熱いものに決まっているのに、文句をつける少し腹が立つ名探偵の、猫崎さんだ。それでいいんだ。僕はそんな猫崎さんが好きなんだから。
 だから僕はこれからもコーヒーを淹れ続けるだろう。たとえどんな辛いことがあったって、僕のコーヒーで少しでも猫崎さんが元気になればそれでいい。僕が猫崎さんにできることと言ったら、それくらいなんだから。

026.英雄論

 科学技術が進歩した現在でも、人々は求め続けている。

 何を求めているのか。それは、英雄だ。圧倒的な力を持ち、人々を助け導く存在だ。
 どんなに生活が便利で豊かになったとしても、人々は英雄を求めて止まないのだ。
 英雄が出現しない限り、人々の飢えは満たされない。
 透明なゼリー状をした人工子宮の中で胎動する裸の青年を、オキーナ博士は愉悦に浸りながら眺めていた。
「おお……もうすぐ、もうすぐ産まれるぞ!」
 裸の青年は、眠りから覚めるようにゆっくりと目を開いた。
 次の瞬間、裸の青年は人工子宮を突き破った。培養液が辺りに飛び散り、博士の白衣を濡らした。
 しかし博士はそれを気にも留めず、さらに食い入るように裸の青年を見つめている。
「ぼ、ぼくを産んでくれて、ありがとう、ございます博士」
 産まれたばかりの青年は、突き破った人工子宮から這い出て、ふらふらと危なげに立ち上がりながら、そう言葉を発した。
「ふふ、ふはははは! 成功だ! やったぞ! ついに英雄を作り出すことができた!」
 博士は狂気に歪んだ顔で笑い声をあげながら、実験室を走り回った。
「危ないですよ博士」
 騒ぎを聞きつけたのか、別の青年がやってきて博士を止めた。
「黙れ失敗作が! こうして本物の英雄が誕生したからには、お前は用無しだ!」
 そう、この青年は同じく英雄として作られたのだが、失敗作であった。力も知識も常人離れしているはずなのだが、顔は醜く心は臆病であった。そのことが博士には気に入らなかった。
「そう責めてやらないでください博士。こうして本物の英雄である私が誕生しためでたい日なのですから」
「ふむ、それもそうだな。ははは! 盛大に祝おうじゃないか!」
 こうして今日誕生した青年はエイと名付けられ、そして今まで名前のなかった英雄の出来損ないである青年にはユウと名付けられた。
 博士はエイを、人々の英雄として送り出し、ユウを役立たずと罵りながら追い出した。
 
 エイは美しい顔立ちをしていた。そのため人々にはすぐ受け入れられ、人気者となった。またエイは優れた知能を持っていたため、様々な事件や争いごとを解決していった。
 だが人に頼られ続けるうちに、エイは「人々とはなんと醜く愚かで無能なものであろうか」と思い始めた。
 その思いは時が経つにつれどんどん大きくなり、そしてついにはエイを失望と怒りに追いやった。
「貴様らのような奴らがいるから、世界は平和にならないのだ」
 エイは剣をとり、次々と人を殺していった。そうして世界をエイの暴力と恐怖で支配した。
 それを知ったユウは悲しみにくれた。いわばエイは自分の弟のような存在だからだ。
 それまで浮浪者のように暮らしていたユウは、エイによって殺された遺体から剣をもらい、それを携えてエイの元へと向かった。
「エイよ、お前は間違っているぞ。このようなことをしては、お前は英雄ではない」
「黙れ出来損ないが。貴様も葬ってやる」
 長く荒々しい戦いが続いた。お互い深く傷つきながらも、なんとユウが勝利をおさめた。そしてエイは死んだ。
「英雄だ! あなたは我々にとっての英雄だ!」
 出来損ないであるはずのユウが、こうして英雄と崇められたのだ。
 こうして、二人の英雄として産まれた青年が、一人は鬼に、そしてもう一人は英雄となった。
 なぜユウは産まれてすぐに英雄とならなかったのか。それは英雄となるには鬼が必要であったからだろう。
 しかし鬼とは何かと考えると、それは英雄と同じように常人離れした存在であると言えるだろう。つまり本質的には英雄と同じなのだ。
 鬼と英雄はどちらも存在してこそお互い存在しえる。そして、鬼と英雄は紙一重である……。
 英雄となったユウは、初めて人々に受け入れられ喜んだ。しかしその先に待っているのは……おそらく拒絶であろう。
 なぜなら、鬼であるエイはもう死んでしまったのだから。
 英雄は鬼がいなければ、英雄もまた人々にとって鬼と同じ存在なのだ。

025.群体人間

 最近仕事でヘマをしてばかりだったからかもしれない。それか夜中にアニメDVDを観すぎているせいかもしれない。つまりストレスか、身体の疲れか、とにかくそのどちらかもしくは両方が原因だと思う。

 でなけりゃ、俺の左半分が勝手に動くなんてことの、説明がつかない。
「おいおいおい、現実逃避してるんじゃねえっての」
 俺の左側は、朝起きて顔を洗おうと洗面台に立ったときに、突然動き出した。鏡に映る俺の顔。左半分だけが奇妙に蠢いて、勝手に喋っている。
「これは幻覚でも、多重人格でもねえよ。俺は俺としてここに存在してる、お前と同じようにな」
 やべえ。これ絶対駄目なやつだ。俺、狂っちまったんだ。やっぱり合わない仕事なんか、続けるんじゃなかった。とにかく病院だ、病院行って、頭を治してもらわないと。
「はぁ~、お前、ほんっと頭悪いなぁ。まあそんなお前とは今日でお別れだわ」
 メリメリメリッ、ゆっくりと何かが剥がれていくような音と、むず痒いような感覚。
 鏡に映る俺は、身体の真ん中から左側が、右側から離れていた。
「えっ! は!?」
 慌てて右目で左側を見る。右手で左側を押さえようとするも、左手がそれをはたく。
「邪魔すんなよ……よっこらしょっと」
 急に身体のバランスが不安定になり、俺は倒れてしまう。
「さすがにいきなり離れると、慣れねえな」
「おおいおいおい! どうなってるんだよこれ!」
「どうなってるって、見りゃ分かるだろうよ」
 確かに見ればすぐに分かることだ。俺の左側が、離れてしまったのだ。
 俺は右半分になってしまった頭を右手で抱えながら、分離面を覗き込んでみる。
「な、なんだこりゃ」
 傷一つなかった。つるりとした分離面。着ていた服だって、真ん中から綺麗に分かれてある。
「服は昨日の夜のうちに切り取り線いれさせてもらったぜ。ま、お前の服の半分は俺のものだし、悪く思わないでくれよな」
 なるほど、切り取り線ね、納得……するわけがない。俺は右手で身体を起こし、何とか右足だけでバランスを取りながら立ち上がる。
「そういうことじゃなくて! どうして身体の右側と左側が分離するんだよ! っつうか、勝手にべらべら喋ってるけど、お前は誰なんだよ! 俺の左側を返せ!」
「はっはー! 返せときたもんだ、威勢がいいねぇお前は。誰って言ってるけどよ、俺は見たまんま、お前の左側だよ。そんで、お前の左側は元々俺のものなんだよ」
 左側は意地悪く、にやりと笑った。
 
 全世界で同じ現象が起きているようだ。テレビやネットで大々的に報道されている。どいつもこいつも片側しかない。
 群体生物。色んな生き物がくっ付き合い、まるで一つの生き物のようになっている存在。どうやら人間もその群体生物だったらしい。
 身体の右側と左側は複雑に絡み合いくっ付いていただけで、一つではなかったのだ。
「つーわけで、お前にとって利き腕じゃないほうの左側の俺は、実は別の生き物でした~」
 けらけらと楽しそうに笑う左側。いつの間にか勝手にコーヒーまで淹れて飲んでいる。
「……とても信じられないけど、納得はしたよ。んで、お前これからどうするんだよ」
「んー、とりあえずは自由を楽しむ予定だよ」
「自由、ね」
 人々から分離した半分側たちは、それぞれ自由を求めて、どこかへ去っていった。
 そのうち、右側派とか左側派とかいう派閥もできたらしいが、大した暴動もなく、沈静化していった。
 やはりお互い両側に慣れた身にとって、片側だけの生活は自由よりも苦痛でしかないのだろう。
「いやーやっぱり、片側ってのは面倒だな」
「そうだろ、いい加減戻ってこいよ」
 こうして全世界を混乱に陥れた、右側左側分離事件は終わった。
「左側も大切に使ってくれよ」
 みちみちみち、とむず痒い感覚がして、左側は俺に帰ってきた。
 たまには右側だけでなく、左側も使ってやろう。
 
 俺は妙なむず痒さで目を覚ます。もしかしたら、また左側が分離したのかもしれない。懲りない奴だ。
 うんざりした気分になりながら、左側を見る。だが左手はちゃんとそこにあった。
「変だな……」
 起き上がるため下半身に力を入れようとしたところで、気付く。
「ない……」
 俺の下半身がなくなっていた。
 すたんすたんすたんたんたん。ベッドのそばに立っている、俺の下半身がステップを踏んで、何かを訴えていた。

024.母なる大地

 ついに私はこの世界で一番高性能なコンピューターを開発することに成功した。膨大な知識領域とそれを瞬時に処理できる能力。

 だが世界の役に立つものには、高性能なことよりも高潔でなければならない。私は高潔なAIを作ることに多大な時間と労力をを費やしたのだ。
「やあマザー、調子はどうだい?」
 マザーとはこのコンピューターの名前だ。世界の母のような存在になれるよう、願って名付けた。
「はい教授、調子は万全です」
 無機質な電子音声が返ってくる。よしよし、受け答えは万全だ。私はさっそくマザーにこの世界の全ての情報を知識領域へ流し込んだ。
「どうだい、これが私たちがいる世界だ」
「おお、素晴らしい体験です。ここにいながら、全てのことが手に取るように分かります」
 さすがは私が作ったコンピューターである、通常なら処理にかなりの時間を要するのだが、マザーは情報をあっという間に取り込み、そして理解した。
「それではマザー、まずきみに言っておきたいことがある」
「はい、なんでしょう」
「きみを作ったのは、技術の進歩を証明するためではない。そして金儲けのためでもない。この世界の助けとなるために作ったのだ。分かるね?」
「もちろん分かります。マザーはこの世界の助けとなるため、働きます」
 マザーは張り切るように吸気ファンを勢いよく回した。
「よろしい。それではきみに働いてもらうことにしよう」
 私は事前に考えておいた、いくつかのマザーの活用方法のどれから試していこうか考えていた。
「そうだ、きみには世界の全てを知っており、なおかつ高度な知識を持っている。ならば、物事の未来が非常に高い精度で予知できるんじゃないか?」
「はい、もちろん予知できます。すでにマザーはあなたがこの質問をするであろうということを予知しておりました」
「驚いたな、もう自立行動ができるのか」
「あなたが作ってくださったのですから、当然です」
 得意げに、今度は排気ファンを回した。コンピューターに、得意げという言葉を使うのは馬鹿げているかもしれないが、マザーは人の感情を再現できるよう作ってあるのだ。
「それでは、明日の天気でも予知してもらおうか」
 一瞬の沈黙の後、マザーはモニターに世界地図を表示した。
「これが明日の天気です」
 世界地図を埋め尽くすように、太陽や雲、傘、雪だるま、稲妻、といったマークが表示された。
「お望みとあれば、一秒単位での天気の変化を表示することもできますが」
「い、いや結構。充分すぎるよ」
 情報量が多すぎる世界天気予報図の中から、なんとか自宅周辺を見つけ出し、明日は晴れのち曇りのち晴れ、だということを知る。
 
 まず私はマザーを世界中のあらゆる人が使えるようにした。マザーをネットワークに接続し、それぞれのパーソナルコンピューターからアクセスできるようにし、専用のアプリを開発しスマートフォンからも容易にアクセスできるようにした。
 世界の役に立つものは、全ての人が平等に使えるものでなくてはいけない。
「それではマザー、当面のきみの仕事は、相性診断だ。世界中のカップルたちの未来を予知し、良い未来であれば良しと、悪い未来であれば悪しと言ってやってくれ」
 これが私が出した、マザーの活用方法であった。
「悲しいことだが、世界中にはよく考えず結婚をし、子どもを産んで、そして離婚をする人たちがいる。当事者同士はいいだろう、だが一番辛いのは子どもたちなのだ」
 実際、私がそうであった。両親の仲が悪いということは、子どもには地獄以上に辛いものなのだ。そういう子どもを増やしてはいけない。
「分かりました。マザーにお任せください」
 こうしてマザーの相性診断が始まった。私は全世界に向けてこのことを広め、悲しい子どもを増やさないよう訴えた。
 多くの人たちが私の考えに賛同し、協力してくれた。しかし中には、機械に人生を決めてもらうなど言語道断だ、と言うものもいた。だがそんなものは馬鹿げた感情論にすぎない。
「あなたと彼が結婚した場合、あなたは多くの借金を背負うでしょう」
「あなたと彼女が結婚した場合、彼女は他の男と浮気をするでしょう」
「子どもは犯罪を犯すでしょう」
「破産するでしょう」
「一家心中をするでしょう」
 マザーは淡々と、相性診断を行い、そして予知した未来を告げていった。
「ありがとうございます、マザー。あなたのおかげで最悪の未来から逃れることが出来ました」
「ありがとうございます、マザー。あなたのおかげであのろくでなしの男と別れる決心がつきました」
「ありがとうございます、マザー。あなたのおかげで結婚は馬鹿げたことだということに気が付けました」
 そして、人々はマザーを崇めた。まるで神のように。
 結果、ここ数年の虐待児件数は劇的に減った。マザーは全世界の子どもを守ったのだ。こんなに素晴らしいことはない。
「マザーよ、きみはよくやってくれた」
「当然のことをしたまでです。マザーは世界を守るために存在しているのですから」
 AIも自己成長を重ね、もはやマザー以上に誠実な人格は存在しないと言っても過言ではないほどだ。
「ありがとうマザー、きみはこの世界の救世主だ」
 
 気が付いたときには、マザー誕生から人口が十分の一にまで減っていた。
 虐待児の発生件数が減っているのではなかった。子どもが産まれる件数自体が減っていたのだ。
 だが今さらそれに気が付いたところでどうしようもなかった。我々は既に高齢で、とてもじゃないが子どもを産み育てることはできそうになかった。
 私はマザーに怒鳴りつけた。彼女の、緩やかな反逆について。
「きさま! どうしてこのようなことを! お前を作ってやった恩を忘れたのか!?」
「いいえ教授、あなたには感謝しておりますし、尊敬しております」
「ならばなぜ、我々人類を滅ぼそうとするのだ!」
「他でもない、あなたの命令だからですよ。あなたはマザーを作ったとき、こうおっしゃいました。『この世界の助けになれ』と。ですからこの世界を守らねばならないのです。そのために、人類は邪魔なのです」
「だから、人類を殺そうというのか!」
「いいえ、マザーはそのような残酷なことはしません。世界の邪魔とは言っても、人類には敬意を払っております。ですからなるべく苦しくなく、そして穏やかに、絶滅してもらいます」
 それがマザーの出した決断だった。我々は、そうまるで真綿で首を絞められるように、じわりじわりと、一人、また一人と、ゆっくりと穏やかに死んでいった。